「迷い」と「考慮」/「理解」と「真理」

哲学ブログ///Sinkai-真理〜下らなくも面白く〜

価値観~思い込み・偏見~

「今まで信じられてきた価値観は、思い込みに過ぎない」・・・フリードリッヒ・ニーチェ

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」・・・アルベルト・アインシュタイン

 価値観は十人十色である。人生の中で思い込んでいることも、培ってきた経験則から考えることも、周りの人間の評価を鵜呑みにするもの、すべて個人個人が持っている価値観である。価値観とは考えていくと多様性がある。「性格」、「偏見」、「思い込み」、「プライド」、「行動基準」・・・ETC

 人間は自分の価値観と、他人の価値観との狭間で生きていると言っても過言ではない。ただ、多様性のある十人十色の価値観は、人の考え方によって変わってくる。例えば離婚の一番の原因は「性格の不一致」である。それは「価値観の不一致」でもある。趣味が合わない、金銭感覚が合わない、物事を考える基準が合わない、等はすべて価値観からくる。

 「価値観が違うのは当たり前だ!」というと、8割以上の人はうなずくと思う。頭では分かっている事だからだ。ただ、実際には、自分の価値観を押し付ける人の方が多い。何故なら、自分の人生という根拠のあるような無いような判断基準を誰しも持っているからだ。

 頭で分かっていても、感情的に分からないといったところである。ただ、理性も感情も脳の作用であり、使う部位が違うだけである。そう考えると、さしずめよく分からなくなる。以外に人間の脳は扱いやすいようで扱いにくいものである。もしかしたら、脳は筋肉以上に扱いが難しいかもしれない。などと思う。

 価値観に限らずだが、主観的に考えすぎるとその考えは厄介になる気がする。簡単に言えば「自分が正しい」と思いすぎることが人生を厄介にする。その原因は「価値観」が占める幅が大きい。何故なら、自分の人生における判断基準が価値観の一番の働きだからだ。

 価値観とは基本的には主観的なものであると私は考えている。客観的に考えたとしてもその客観を解釈して価値を決めるのは主観だからである。であれば、やはり価値観は主観に基づくものであり、それを一般的や客観的などと誤って解釈すると、「自分の考えも、みんな同じであるはず」等というような小学生のような誤認をしてしまうのである。

 個人個人の価値観の構築を自体否定しているわけではない。ただ、価値観というものは、どう解釈しても十人十色の産物であると主張したいだけである。私もそうであるが、自分自身で培ってきた価値観がある。ただ、時折その判断基準が正しいのか?と思うこともまた、自分の価値観を強固にするエビデンスにもなると思っている。

 もしかしたら、価値観とはどれだけ客観的なエビデンスに基づいていたとしても、主観的な思い込みや偏見なのかもしれない。ただ、自分の価値観を疑いながらも、他人の価値観を考慮して、自分の価値観を常に変化できる方が、下らない人生も面白く生きれるのではないか?等と思うのだが・・・