「迷い」と「考慮」/「理解」と「真理」

哲学ブログ///Sinkai-真理〜下らなくも面白く〜

批判の条件~根拠と教養~

「もし君を批判する者がいないなら、君はおそらく成功しないだろう」・・・マルコムX

「馬鹿からの賛同は批判よりも迷惑である」・・・フローレンス・ナイチンゲール

 以前、批判的思考について、否定的な思考との違いについて記載した。何故、批判的な思考が世間では悪い事と言われているのか?という疑問に対し、世間的に批判的な思考と否定的な思考が混同しており、「批判」=「否定」という間違った解釈が世論になっているため、批判は悪い事と思われていると説明した。

 しかし、物事に対して過失割合が「10対0」ということは殆どない。批判的な思考を世論が間違って捉えているように、批判的な思考を間違って否定的に世論に伝えたのもまた、批判的な思考を持った人たちである。そう考えていくと、批判的に物事を解釈することと、否定的に物事を解釈することを混同して、批判なのか否定なのか分からない主張をする人が多かった結果なのかもしれないとも考えられる。

 私の人生の中でも否定的な人は多いと感じている。例えば、新しい事をしようと提案すると、出来る工夫より出来ない理由を探す人が圧倒的に多い。そして、その出来ない理由も根拠が乏しい。「前例がない」「自分の考えにそぐわない」、「大変だ」等と・・・人間は自分の環境をなるべく変えたくい生き物らしい。それはそれで悪いことではない。

 しかし、それらは根拠ではなくただの感情である。「前例がなければ創ればいい」「考えにそぐわなければそぐように思考修正すればいい」「大変なだけならやればいい」というだけであり、そこにある根底は「嫌」という感情が先立つ。それは批判ではなく否定である。何故なら正当なエビデンス、所謂、根拠がないからである。

 否定とは、ただの「打ち消し」である。批判とは「修正」である。否定と批判の主張の境目になるのは、そう考える根拠が正当にあるかないかが大きな要素となる。そして、その根拠路主張できる批判者があまりいなかったため、「批判」=「否定」という式が世間のパラダイムになったのかもしれないとも思う。

 また、ただ相手の意見に対して否定だけする人は、教養がない。教養とは子供時代に教わったことだけではなく、私自身の考えでは、大人になってからの学びでもあると思う。何故なら、子供時代は自分では環境を変えられる力もなければ、考慮力もない。モラトリアムであるからこそ、環境に依存的になる。

 しかし大人は、自分で環境も創れれば学ぶこともできる。言い換えれば、自分次第で教養を身に着けることが出来るはずである。ただ、その気が無いか、自分の教養が正しいと思っているか、教養が必要ないと思っているか等である。もちろん、私自身も教養がない、もしくは自分の教養が正しいと思っている人間かもしれない。しかい、時折でも自問自答はする・・・「自分が本当に正しいのか?」「自分が正しいと思う根拠は?」等と・・・

 コロナ下の現状で、自分で判断できない、または根拠がないのに賛同、否定する人間が多いと感じる昨今である。PCR検査(ポリメラーゼ・チェーン・リアクション)に関しても、仕組みを理解しようとする人は少ないのに、PCRを推奨する人は多い。PCR検査と抗原検査を混同している保健所職員もいる。陽性と感染の区別もつかない看護師もいる。言い換えれば根拠が分からないのに世論に賛同や否定をする。

 社会批判を考えればきりがないが、社会とは個人個人の集大成である。世論も同じような性質を持つ。社会を狭義的に考え縮小して考えていくと、職場や家族、個人的なものとなる。その中で、否定的な考え方しかできない人が多いからこそ、「批判」=「否定」と認識されてきたのである。

 何事においても間違っていたら修正は必要である。だからこそ批判的思考は必要なのだ。ただ、批判をするからには、正当な根拠や教養がなければ、世論では否定と捉えられるのも常である。

 「批判」は社会的にも人生的にも必要なものである。何故なら、物事において「修正」は「流転する万物の中」で、必須条件に値するものだからである。それが下らないことかもしれないが、割かし人生を面白くする1つの要素であると私は思っている。