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責任~行動・修正・罰~

「ほとんどの人間は実のところ自由など求めていない。何故なら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負う事を恐れているのだ」・・・ジークムントフロイト

 「責任」という概念はもともと「応答・返答」をさし、ラテン語のresupondereを語源としていると言われ、英語ではresponsibilityであり、「レスポンス」は日本でもよく使う言葉である。簡単に言えば、自分の意思でしたことに対する「弁明」である。

 「責任」には、「自由」があることによって伴われているとも言われている。要するに、「自分の意思に由る」結果に対しての行動とも置き換えられる。法的責任や政治的責任、社会的責任等、色々な側面はあるが、少しシンプルに考慮しようと思う。

 結論から言うと、自分以外の事に対して、本当の意味で責任を取るというのは無理な話だと思う。語源は「弁明」だとしても、現在では「過ちに対しての修正」が妥当であり、「修正できない時は罰が生じるもの」と私は考えている。

 例えば交通事故で人を死なせてしまった時は、「修正」が出来ないから「罰金」が生じる。70歳の年金が月10万円もらう人を、交通事故で死なせてしまった場合、平均余命が仮に20年であったら、20×12×10万円=2400万円の責任「罰」が生じる。これは、言い換えれば、死なせてしまったことは「修正」できないから、その人が稼ぐであろう金額を「罰」として払いなさい。という事である。「罰」により「償」があっても、死んだ人を生き返らせるような「修正」は出来ない。

 身近に使われる「責任」は「罰」という要素のみが顕著であり、「修正」という要素はあまり含まれていないように感じる。それはそのはずであり、本当の意味で「修正」なんて出来ないからである。

 例えば、仕事で取引のミスをして、それを「修正」し、結果取引ができたとしても、その費やした時間は帰ってこない。だから、すべてを元通りには出来ないという意味で、「本当の責任」はとれないものである。

 よく「自分は責任はとれない」という言葉を聞くが、言い換えれば「過ちに対する修正するための行動が出来ない(できる能力又は意思がない)」という事と、「罰を受ける筋合いはない(罰は受けたくない)」という事にほとんどが言い換えられる。

 その中で、多くの人が「罰」が嫌という事で「責任を取れない」と言っている。(私の周りだけがそうかもしれないだけだが・・・・)しかも、その「責任」に対する「罰」について恐れはするものの、どれだけの「罰」になるかをリアルに考えたことがない故に「責任が取れない」と簡単に発言する。「修正」できる能力や意思がある人は、そもそも論になるが、「責任」に対して文句を言わない。

 職場に対しての責任は、大抵「上司に怒られる」という「罰」を受けるだけの人が、ほとんどなのではないかと思う。もちろん私自身も含めて。そして、損益に関してや人間関係、苦情は「修正」する人が「罰」以上の責任を負い「行動」し「修正」ているものである。ただ、シンプルであるが、「責任」を考えたら、大抵7割くらいは(7割の根拠は体感なので、信憑性はないが)それだけの事なのであると思う。

 また、中には「責任は自分が取る」と言って、何も行動に移さない人がいるのも事実である。上司であろうと組織のヒエラルキーの上の立場であっても、責任に対して行動をしていない人の言う事は、やはり些か信用できないものである。

「真実は行為に示され、それを飾る言葉はない」・・・シェークスピア

 私自身も、自分の行動に対して責任をとれてない面もある思う。しかし、自分のしたことや組織のしたことに責任をとれる人間になれた方が、善い人生を送れると思う。

責任
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