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実学~学ぶ先~

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」・・・福沢諭吉

 上記の言葉は福沢諭吉の「学問ノススメ」で非常に有名な名言である。しかし、この言葉には続きがある。

 人間は生まれたときには貴賤や身分の違いなどなく平等であるが、実際には身分が違い貧富の差もあり、賢い人と愚かな人がいる。これはなぜかと言うと理由ははっきりしている。「実語教」という本の中に・・・

「人は学ばなければ智はない。智のないものは愚かな人である」

と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人の違いは、学ぶか学ばないかによって決まるのである。と・・・

 言い換えれば学問を学んでいるか学んでいないかが、貧富や貴賤の差を生み、社会的地位の差を生み、賢い人と愚かな人を生んでいるということである。 

 ちなみに「実語教」という本は平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした、寺子屋等で使われていた庶民の教科書のようなものである。

 「学問ノススメ」は明治5年~明治9年にかけて全17編の分冊として発行され、明治13年に一冊の本として発行されたらしい。

 江戸幕府が滅び、士農工商の身分制度が崩壊し庶民にも苗字が与えられ、文明開化をとした明治時代であるが、実際には部落差別があったり、農民と士族等と身分の差別もまだ生き残ってはいた。

 しかし、貧富の差はあれ「学問」という武器が庶民に広まり、すべての人間とまではいかないが、個人の努力による学びで下克上ができる時代になったのも明治時代である。

 福沢諭吉は「学ぶべき学問」のことを、ただの知識的なものではなく「実学であるべきだ」と記載している。「実学」とは実際に人間が生活している中で役に立つ学問と説いている。

 「学問ノススメ」では、帳簿の付け方や算盤の稽古、天秤のはかり方等が上げられている。また、本を読み様々な知識を学ぶことは大事であるが、それを実行に移し役に立てることが必要であるとも説いている。

 昔から「論語読みの論語知らず」という言葉があるが、知識を役立ててこそ「学問」足りえることであり、役に立つからこそ「実学」となりえるということである。

 現代では身分制度は完全になく、日本人は日本国憲法においてみな平等の権利を持っており、身分で差別されることはまずない。しかし、差別される人はいる。また、どの集団においてもヒエラルキーが存在し得るものであり、そこにも様々な真因がある。

 小学生等の子供のヒエラルキーは主に腕力であったり、運動能力であったりもする。しかし、大人になると格闘家やスポーツ選手等を除けば、「学問」に行きつくのではないかと私自身は考えている。もちろんそうでない場合もあるが・・・

 そして、個人個人が幸せになるためにもやはり「学問」が必要である。そして、それは実際に役に立つ「実学」でなければならない。

 以前もこの論語の言葉を紹介したが、

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

という言葉がある。ここで「道」というのは、人としての道理などを指す「学問」のことであり、一般的な役は「朝に人の道理等の学問を学べば、夕方に死んでも後悔はない」というようなことである。

 しかし、私はこの言葉は「朝に人の道理等の学問を学べば、夕方には朝に学問を学ぶ前の自分はいなくなる」のように解釈している。自分の考え、行動を変えるほどの学びが本来「学問」と呼ばれるべきで、それが「実学」となるのではないのだろうか。

 様々な知識を学んで行動に移す人は、私が知る限りでは集団のヒエラルキーの中でも上の方におり、人生も楽しく生きているように思える。人の愚痴も少なく、自分の人生に不満もあまりないようにも感じる。

 それはおそらく、様々な知識を行動の原理として実学にまで発展させているからである。

 例えば、私は小さい時から親に「人は人。自分は自分」と教えられてきた。そしてこの学びを「実学」として発展できたからこそあまり他人に妬むようなことはあまりない。まあ、たまにはあるが・・・

 昔と違い現代は情報過多である。故に情報リテラシーが必要になるが、それだけ手っ取り早く知識を学べる機会が多いと言える。その中で自分の人生に役立つように必要な知識を「学問」ととらえ「実学」にまでおとすことは人生にとって、重要な一つである。

 様々な学びを実際に自分の生活に役に立つように加工し、行動に移していくように・・・言い換えれば学びをただの知識と捉えず、その学んだ先に「実学」までおとし込み、自分の人生をブラッシュアップしていくことは、人生を面白くする1つの対策である。

 

 

 

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