哲学ブログ

「知」と「不知・無知」~自覚~

「吟味されざる生に、生きる価値なし」。

「唯一の真の英知とは、自分が無知であることを知るということである。」・・・ソクラテス

 ソクラテスは紀元前5世紀頃の古代ギリシャの哲学者であり、「哲学の父」と言われている不知の自覚。知っている人も多いと思うが、ソクラテス有名な話の中の1つに「不知の自覚」(昔は「無知の知」と言われていた)という話がある。

 古代ギリシャの聖地である「デルフォイ」は、預言の神でもある「アポロン」を守護神として祀っている神殿があり、巫女が神のお告げ(神託)をすることで有名であった。そのデルフォイでソクラテスの友人が巫女に「ソクラテスより知恵のある者はいるか?」と尋ねると、巫女は「ソクラテスより知恵のある者はいない!」という神託を伝える。

 これを聞いたソクラテスは、「自分は知らない事の方が多く、そんなことはない」等と思い、その神託の真意を確かめるために、政治家や詩人、芸術家や建築家等、所謂「知識人」と言われる人々を訪ね、自分よりも賢い人を見つけようとする。

 しかし、「知識人」と思われる人々は自分自身に知恵があると思っていても、実はそこまで知恵があったわけではない事を知る。また、ソクラテスは自分が「様々なことを知らない」という自覚があったことに対し、「知識人」と言われる人は「知らない」という自覚がないことに気付く。

 そこでソクラテスは、神託の意味は「知恵に関して自分が知らないことが多いことを自覚しているということが、最も人間の知恵がある者」という解釈に行きつく。これが「不知の自覚」である。

 ただ、ソクラテスが「様々なことにたいして知識がないか?」というと、そうではない。ソクラテスの弟子には哲学者で有名な「プラトン」・「アリストテレス」等様々な優秀な弟子がいる。プラトンはイデア論で有名であり、ソクラテスは「万学の祖」と言われ幾何学や天文学等、後世に様々な影響を与えている。

 無知の人間にそんなに弟子ができるはずはない。しかし、ソクラテスは「不知や無知」を自覚していた。

 この現象は何故か?

 それは、ソクラテスが様々なものを学んでおり、様々なものを学ぼうという姿勢が非常に強かったからであると私自身は考えている。何故なら、様々なものを学べば学ぶほど「自分の不知(知らなかったこと)」に気付かされるからだ。

 「知らない」ということは、学べば学ぶだけ発掘されていくからだ。個人が有する専門的知識が豊富であっても、専門外になるとほとんどの人が「無知」になる。

 専門的知識も、深く深く学んでいくと様々な学びが発掘される。学びがあるということは、「知らないことがあった」ということでもある。「不知の自覚」というものは、様々なことを学ぶからこそ、「知らないこと」も増えると言うわけである。

 私は何度か職種を変えているから、この事象が良く分かる。職種を変えた分だけ「知らないこと・分からないこと」が増えるため、不知が分かるのである。

 しかし、人間は何故か自分が何でも知っているような感覚に陥る。おそらく、自分の「生活範囲内の知識」があることを「多くの知識」と考えてしまうのではないか?と感じる。また、自分の生活範囲内で知っている知識が「当たり前」に感じてしまい、それが常識と勘違いしてしまう側面もある気がする。

「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う。」・・・アインシュタイン

 そう、自分の生活範囲内の知識があれば特に問題なく過ごせるので、多くの人の生活に不自由しないほどの博識を持っていると勘違いしてしまったり、自分の常識が常に世の中の常識と思い込んでしまったりしてしまうある種の本能的傾向が人間にはあるのではないかと思う。

 何故かはわからないが、「話を聞かない男・地図を読めない女」という、以前ベストセラーになった本の内容で、「男は道に迷った時に人に道を聞くより自分で解決したがる傾向にある。また、スーパーで商品を探すときに店員に聞くのが早くても、自分で探そうとする傾向にある。」と言う様な話がでてくる。

 これは、狩猟採集時代を人間(ホモサピエンス)は進化過程のほとんど生きており、その中で男は「負ける≒死」みたいな体感が備わっており、「人に聞く≒負ける」みたいな感覚があるらしい。だからこそ、男は人に教えを請いたがらなくなる。もちろん、尊敬する人からの教え等は別である。

 要するに、「自分が多知てきである≒他人に勝てる」と言う様な本能的願望があるため、「自分は多知的」と思い込みたいんじゃないのか?等とも考えてします。

 ただ、世の中の知識は無限である。知識自体はは有限と思うかもしれないが、人間が生きている以上新たな知識ができるため、やはり無限なものである。ただ、たかだか1人の人間が生きている間に取り込める知識はごく微量な有限である。

 自分が知らない事を知ることは、ある意味時には屈辱になるかもしれない。しかし、人1人が知る知識量等世界の知識からすると微々たるものであるのは間違いない。また、その微々たる中でも多くの知識や知恵を得ようと行動した方が、自分の不知や無知を思い知らされるかもしれないが、下らなくも面白い人生を送れるものだと私は考えている。

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