哲学ブログ

情報神話主義

「情報は知識に非ず」・・・アルベルト・アインシュタイン

「知識に埋もれて、知恵が見つからず、情報に埋もれて、知識が見つからない。」トーマス・スターンズ・エリオット

 「情報革命」・・・何年か前からこんな言葉をよく聞く。

 人間(サピエンス)は、約7万年前の「認知革命」が起こる。それにより「虚構の共有」ができるようになり、何万人もの人間の統率を出来るようになった。そこで人間をまとめる為にできたのが神話と言っても過言ではない。人間の成り立ちを神話で説明し、神話のストーリーに沿ってあがめられる人間もいれば、裁かれる人間もでてきた。所謂「神話の奴隷」になったとも言い換えられる。

 約1万年前に「農業革命」がおこる。それによりほぼ多くの人間は定位置に在住するようになり、子孫を増やす事には成功したと言える。しかし、狩猟採集から農業にいそしむようになったため、椎間板ヘルニアや変形性の関節症等の病気と闘うことになる。また、栄養状態も狩猟採集の時代より悪くなったという説もある。農業革命は人間が「小麦の奴隷」になったとも表現される。もっと範囲を広げれば米等も含まれるので「炭水化物の奴隷」になったとも言い換えられる。

 約300年前に「産業革命」がお起こる。蒸気機関車等の発明に始まり、石油を資源とした重工業の発達、現在では様々なものが自動化される程のコンピューター技術まで開発されており、この分野は今後も飛躍される。その分、人間は自分の自然的な部を使わなくなる。身体もそうであるが、感覚的なところも同じであり、自然は何もないと感じるようになる。都会の人間が田舎に来た時に雄大な自然があろうと「何もない」と思うことが典型である。

 この現象は、人間にとって意味があるものとは、人間にとって便利になる存在であるものと認識している事である。人工的な産物こそが人間に恩恵をもたらすと、人間は思ってしまうわけである。しかし、人間は自然的産物であり、もちろん脳も自然的に発達してきた臓器である。なので、不具合が起こる。

 いかに便利になろうと、「ストレス社会」と言われるのが、その不具合の結果であると、私自身は考えている。また、ホワイトカラーの仕事等に関しても、人間は長時間椅子に座るようには設計できていない為、ヘルニア等の疾患等の不具合も起こる。産業革命により便利にった分、自然的な事を感じることができなくなり、いつしか人間自体を自然的な生物と思えなくなり、他人に関しても機械的に考えてしまう。ある意味「人工物の奴隷」とも言える気がする。

 そして、現代ではインターネットの普及により、非常に情報過多の時代になり、誰でも様々な情報を入手できるようになった。そして、「情報革命」が起こったと言われたりする。専門家でなくともある程度の知識は学べるようにはなったし、知りたいことは大抵、検索すれば教えてくれるようになった。。しかし、情報がありすぎるために、どれが本当の情報かが分からなくなり、「情報リテラシー」という能力が、個人個人に求めらる時代になったとも言える。ある意味、現代人は「情報の奴隷」と言っても過言ではない気がする。

 情報を重んじるがあまり物事の本質が見えていない人も多いとも感じてしまう。言い換えれば、「人間=情報」と思っている人が多くなったように思う。私は社会福祉士であり、お客様の情報収集も仕事であるため、個人個人の様々な情報を入手する。しかし、私自身は「人間の情報はある種の指標でしかない」と考えている。何故なら「人間は常に変化する」からだ。

 もちろん、既往歴や服薬情報、生活歴や栄養情報等、様々な情報は大事である。しかし、その個人個人のストーリーを感じられる人が少ないと思ってしまう。本当の情報は、その人間と出会い、接して、どう感じるかが大事であると私個人は思っているが、書面的な情報の方が重視されている気がする。そして、それは何も人間に対したことに限ったわけではない。

 例えば、面白そうな本やおいしそうな飲食店等を求めるときに、まず情報をみる人が多いと思う。「何万部売れている!」や「食べログで評価が高い!」等の・・・しかし、多くの人の評価と自分の満足度は違うはずであるにもかかわらず、自分の感覚よりも情報が先立ってしまい、他人の情報を信じてしまうのである。 

 そして、その情報が自分にとってマッチングしなかったときには、自分の決断した責任は置いといて情報のせいにする・・・「嘘つきやがって」のような・・・

 情報はある意味人生を生きるための「武器」にはなるが、そのもの自体の本質には成り得ないと、私自身は考えている。

 情報は人間が作る人工的産物であり、人間にはヒューマンエラーがあることや、人間も含め自然は変化していくため、情報を作って誰かに届けたとしても変化している可能性がある。また、人間は変化していくため、同じ情報を2回見たとして、2回とも同じ解釈にならないからである。同じ映画を2回見たら、1回目と2回目の感想は微量かもしれないが変わるはずである。映画の情報は変わらないが・・・

 様々な情報は大事であり、情報リテラシーがあればそれはそれで面白い人生を送れると思う。しかし、情報がすべてと思い、自分の感覚や他人を情報としてみなすような「情報神話主義者」になると、それはそれで、生きにくくなると私自身は考えている。産業革命以来の人工的産物は情報で何とかなるが、人間社会は人間というある意味自然的産物と付き合っていかないといけないからであり、もっと言えば自分自身も元々は自然的産物の要素が大きいからだ。

 様々な情報を知ることは大事でもあるが、それ以上に様々なことを感じる事が出来る方が、幾何かつまらない人生を面白く生きれると、私個人は考えている。

  • この記事を書いた人

yu-sinkai

-哲学ブログ