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真実と事実

「正解とは、真実とは、本人が最も納得できる仮説に他ならないのです。」・・・森博嗣

「事実は真実の敵なり。」・・・ミゲル・デ・セルバンデス

真実と事実・・・似て非なる言葉である。違いは、

事実は本当にあった事柄、現実に存在する事柄。真実は、嘘偽りのない事、本当のことを意味する。・・・違いが分かる辞典より

 この解釈で行くと、事実とは事象として1つしかない事だが、真実は個人個人によって複数ある事と言える。私自身、この2つの事柄の意味や感覚を理解していない人が多い気がする。言い換えれば、事実のみが真理であって、個人個人の嘘偽りのない事自体はフェイクに思ってしまう人が多いということである。

 例えば、神について考えると、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の神の存在を日本人は否定しがちである。ユダヤ教であれば「ヤハウェイ」、キリスト教で言えば「ゴッド」、イスラム教で言えば「アッラー」の神がいて、その教徒自体にとって神は個人個人の嘘偽りのない事であり、存在しているのだ。

 だからこそ、イエスキリストは「信じる者は救われる(たとえユダヤ人じゃなくとも)。」という教えを説いた。信じることで神が存在するという事実はなくとも真実があるからだ。神という存在は各々の真実である。

 「地球は青かった」・・・という1961年に人類初の宇宙飛行に成功した当時ソビエト連邦の軍人であったユーリイ・ガガーリンのこの言葉は日本人には有名な言葉であり、私たち中年層以上は聞いた言葉である。しかしこの先があり、「だが、神はいなかった」という言葉の方が世界的には有名な言葉らしい。

 それだけ世界の人にとって「神」は真実なのである。

 この個人個人にとっての真実を認めることは、意外に重要なのではないかと私自身は考えている。その個人個人の真実は事実ではないが本人からすると嘘や偽りのない、存在している概念であったり考え方であったりするからだ。それを理解できなければ、ある種、その人を理解できなくなるからだ。時には差別に繋がるときもある。

 例えば、「レビー小体型認知症」という症状を持っている人の特徴の1つとして「幻視・幻聴」がある。統合失調症でも「幻聴」がある。事実としては他人には見えなかったり聞こえなかったりする為存在しないが、症状のある人にとっては真実なのである。

 また、「認知症」自体は短期記憶(5分前や10分前等の記憶)が低い為、すぐに忘れてしまうので、ある意味5分前や10分前の事実は、個人的な真実として無くなってしまう。如何に事実がどうあろうが、本人にとって真実ではなくなるのだから事実を言ったとおころで本人にとっては嘘をつかれている感覚である。

 色恋沙汰や友人関係でも同じであり、好きな異性に対しては「本当は優しい人」、「私は本当の彼(彼女)を知っている」等の真実が存在し、友人に対しても「本当はあいつは良い奴なんだ。」「頼りになる」等の個人個人の真実を持つ。もちろん事実が先立ち証拠となったためその様な真実が作られる場合も少なくない。

  しかし、客観的に見て事実と真実が違うと人は、「それは違う!」とおせっかいも焼きたくなるし、場合によっては「この人は騙されている!」と思ってしまいがちである。ただ、それもまた個人個人の真実から見た解釈である可能性が高かったりする。なので、他人の真実を考えるときは否定から考えない様に些か慎重になった方が良いと思う。もちろん、明らかな詐欺である場合は別として・・・

 事実と真実は違い、他人にとっては事実ではなくとも真実である場合がある事や、それは自分も例外ではないと知ること。事実とは異なったとしても個人個人の真実は嘘偽りなく、その個人個人にとっては存在している事象や概念である事を察することは、意外に重要なことである。何故なら、その人を認めることができるようになるからだ。

 有名なマズローの5段階欲求の4番目である承認の欲求はおそらくすべての人が持っている欲求である。それは老若男女問わず持っている。事実と真実を区別し、真実もまた個人個人の真理であることを理解できれば、承認の欲求を満たしたり満たせてあげたりする考慮材料になるはずである。

 如何に事実が正しいと言えども、人生は事実のみの解釈で生きる程浅くはない。それぞれの培ってきた人生の真実がある。であれば、客観的な正しさの証明である事実のみに囚われず、個人個人の真実にも時折照明を当て考慮出来た方が、人生は面白くなると私自身は考えている。

ボッカ・デラ・ベリタ(真実の口)

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