哲学ブログ

ストーリーと情報~掛け替え~

「人生とは自分を見つけるものではない。自分を創るものだ。」・・・バーナード・ショー

「涙と共に、パンをかじった者でなければ、人生の本当の意味は分からない」・・・ゲーテ

 「ストーリー」と「情報」・・・中田敦彦氏のYouTube動画で取り上げられていて、「なるほど」と思う感銘と同時に、「ストーリーと情報の区別を出来ていなかった」ことに気付かされました。

 例えば、私は高齢者施設で社会福祉士として相談員をしているので、入居されるお客様の生活歴を調べます。「○○で生まれ育ち、○人兄弟で、○年に結婚され、○人の子供を授かる。○○の仕事をしながら生計を立てて、時には○○なこともあったとのこと。子供が独立した後は・・・」みたいな感じで、その個人情報を共有しやすいようにまとめます。

 ただ、私はお客様の「ストーリー」を教えて頂いていたのに、それを「情報」と考えていたことに気付き、チョイ自分に腹が立ったりしています。

 少し話が逸れますが、最近はやりのchatGTPは、メチャクチャ便利です。たいていの質問にはすぐに答えてくれますし、AIの壁とも言える「文脈からの理解」なんかも突破し、除法をつなぎ合わせて、下手したら人間よりもきちんと質問や悩みなんかに答えてくれます。なんたって扱う「情報量」が人間に比べて違いますから・・・

 でも、情報はあっても、ストーリーを伝えることは、まだAIには難しいと思います。なんたって、感情が入りますから(-_-;)。もちろん、物語のストーリーなんかを情報として伝えることは容易だと思います。ですが、人間の個人個人の人生におけるストーリーを表現することは不可能だと思います。

 個人個人、人間には人生の「ストーリー」があります。それは「情報」のように「知るもの」ではなく、「感じる事」だと思います。人間が人間に共感するアルゴリズムはAIのアルゴリズムと違います。それが「感じる事」です。まあ、「感じる事」自体がアルゴリズムであるということが間違った解釈かもしれませんがf(^_^;)。

 人間には、良くも悪くも「思い入れ」という能力があります。これは言い換えれば「共感できるストーリーの共有」だとも言えます。もしくは「共感できる感情の共有」というところです。そこに、「絶対了解」みたいな、数学的な思考yは必要ない領域です。

 ちなみに、「絶対了解」とは、簡単な算数であれば、「1+1=2は2-1=1なので、故に1+1=2である。」の様な、感情に関わらず真理の有無を了解せざる負えないような事を言います。

 養老孟司氏の意見にもありますが、「人間≒情報」と考えている人や、人間自体が情報化に傾いている気がします。だからこそ、田舎に行くと「何もない!」という感想をよく聞きます。ここでの情報とは、人工的な要素による情報です。なので、自然が発する情報は「何もない!」という解釈に結び付きます。

 さて、ここで疑問に思いますが「情報って、そんなに大事ですか?」と問われたときに、殆どの人が「情報は大事」というと思います。では、「個人の生きた人生史(ストーリー)は大事ですか?」と問われたら、殆どの人は「個人の人生史も大事」というと思いますが、多分把握しようとする人はあまりいないと思います。まあ、私自身の体感ですが・・・( ̄▽ ̄;)

 情報化社会を否定しているわけではありません。情報は大事です。ですが、私個人の考えでは情報は「戦略」として必要不可欠な武器です。それは「昔からある戦や戦争」、現代では「企業戦争」とでも言えばいいか分かりませんが、人工的な人生における部分としては、必ず必要になると思います。人生の中でも色々と戦略が必要なので・・・多分(;´・ω・)。

 ですが、自分の生きている人生は「ただの情報の集まり」で終わるほど浅くはないと思います。私自身の人生は「ただの情報の集まり」でもいいですが、私自身が関わりのある人は「その人それぞれのの人生(ストーリー)を歩んでいる人」だと感じます。人間特有の本能は「虚構の共有」と何度も記載していますが、もしかしたら「ストーリーの共有」が始まりなのかもしれないとも思います。神話なんかがいい例ですね。

 私自身は、都会も田舎もあまり変わりません。都会は「人工が集まる現象としての自然的現象」、田舎は「人工が少ない現象としての自然現象」です。人工的な現象がもたらす傾向としては、ある意味世界共通にも思えます。そして、人工的な建設物・・・例えば秦の始皇帝が作った「万里の長城」にもストーリーがあるように、何万年と生きている「田舎の大樹」にもストーリーがあります。

 でも、現代では「万里の長城」も「田舎の大樹」も、それどころか「人間」も情報と考えている人が多いと思います。もっと掘り下げて言えば、「情報の方が曖昧なストーリーより正しい」と、暗黙の了解があるかのようにも思います。

 人生は「自然なのか人工なのか?」、人間が生きた足跡は「情報の産物なのかストーリーなのか?」、「自然が多いという代名詞である田舎は本当に何もないのか?」、「情報のみで人間は満足できるのか?」・・・ETCと私的には色々と疑問はあります。ですが、様々なストーリーを感じれるからこそ人間であり、だからこそ人間は「掛け替えがない存在」足り得ることができると思います。

 自分が「感じる事」と「知ること」、言い換えれば「ストーリー」と「情報」認識の違いを把握しておく方が、人生を面白く生きれる考慮材料かなぁ・・・なんて思います(/・ω・)/

 

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yu-sinkai

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