哲学ブログ

幸せ~日常感or非日常感~

 私の幼少期は、ゲームはファミコン(小学校3年からスーパーファミコン)であり、エアコン設備がないところも多く、小学校のトイレは男女共同の汲み取り式トイレでした。音楽もカセットやCD、録画はビデオテープ、何故か仕事もしていないおじちゃん(50歳くらいかな?)が、どの地域にもいました。

 ゲームやエアコン、トイレや音楽や録画媒体などは、この30年間で大分進化しました。科学だけでなく治安もそうだと思います。私が小さい頃はまだ、よくチンピラやヤーサンを見かけましたが、最近ではいないですしね。そして、何故か仕事もしてないおじちゃんが昔はよくブラブラしていたと思いますが、最近は見かけないですね(;^_^A

 確実に便利な世の中になり生きやすくなっても、やっぱりストレスは溜まるものですね・・・溜まるというより発散できていないと言った方が正しい気もしたりします。まあ、そんなこんなで最近「幸せとは?」なんて考えることもあります。

 先日のブログでも、アンデシュ・ハンセン医師のことをご紹介しましたが、アンデシュ・ハンセン医師は、

「幸せになるために最大限の努力したいなら、一番重要なのは幸せを無視することだと私は思う。」

と言ってます。私はこの言葉を聞いて、「なるほど・・・」と思いました。ある意味、アンデシュ・ハンセン医師の幸せと、仏教の幸せの定義は似てるのかな・・・なんて考えたりします。

 人間は「常に幸せ」と思う事はまず無理だそうです。これは私自身の考えではありますが、幸せを「日常と非日常」に分けると分かりやすい気がします。非日常はもちろん日常的でないからこそ特別であり、非日常の日は「幸せ」と言えます。もちろん逆になると不幸ですが・・・(;一_一)

 日常的な事に満足することも一つの幸せではありますが、それは「当たり前のことに満足していると思う状態」とも言える気がします。「実際、非日常的な幸せ感はないけど、毎日不安もなく過ごせてて幸せです!」みたいな感じだと思います。例えが下手でスミマセン_(._.)_

 おそらく、仏教の幸せの定義も、アンデシュ・ハンセン医師の幸せの定義も、基本的には「日常を普通に生きる事」のように、私は感じています。そして、それが難しいからこそ、仏教のような尊い教えがあったり、アンデシュ・ハンセン医師のような方が著作物をだしたりしているのだとも思います。

 まあ、私はお酒飲めて、タバコが吸えればわりかし幸せですさね(*^_^*)なんて、将来絶対不幸になりそうなフラグを立てている、今日この頃でした(・_・;)

幸せのイメージ

  • この記事を書いた人

yu-sinkai

-哲学ブログ