哲学ブログ

特攻隊~気高い精神~

「死するとも なほ死するとも我が魂よ 永久に留まり 御国守らせ」・・・緒方 襄

 先日、鹿児島県の南九州市知覧というところにある「特攻隊記念館」に行った。小さい頃からちょくちょく行っているが、年齢をとるとと共に特攻隊に対しての見方が変わってくる部分もでてくる。

 殆どの人が特攻隊を知っているとは思う。大東亜戦争(第2次世界大戦)で、片道の燃料を入れた飛行機に若者が乗って、アメリカの敵船に飛行機ごと体当たりする「隊」の事である。

 「必死」という言葉がこれほどあてはまる部隊は無い。成功しようがしまいが「必ず死ぬ」からである。

 私が小さい頃は、特攻隊に行った兵士たちは「大人」であり、それこそ「男らしい」と思ったり、「当時の日本は悪かった」と思ってた。しかし、大東亜戦争について色々と調べ、また子供の頃は「大人」と思っていた特攻隊が、今では「子供」と思うようになると、遺書などを読んでいて目頭が熱くなる思いであった。若くて18歳程の子もいて、太平洋に沈み、靖国神社に祀られている。

 その特攻隊の遺書を読むと、自分は死ぬのに、母や父、兄妹たちに「健康で元気でいて下さい」といった内容がほとんどである。もちろん、当時は遺書にも規制があり上官が確認していたため「死にたくない」等の遺書は残せなかったとも言われている。

 しかし、その特攻隊の世話をしていた女学生の話では、特攻隊兵士は女学生に「必ず元気で生きるんだよ!」等と話をされていたり、特攻するときは笑顔で出陣していたとの話がほとんどである。遺書を読んで、私的に察するに、親や兄弟に「死にたくない」「悲しい」等と言って心配させないような気遣いをしているように感じた。

 「特攻隊」は非常に異常な「隊」であり、その命令をした当時の日本軍の司令部は悪魔のような存在と思われるかもしれない。今の感覚から言えばである・・・

 ただ、日本に限らずかもしれないが、日本の歴史の中でも死んでも特攻する人物はいた。「真田幸村」がいい例でもある。「大坂夏の陣」で「死」を覚悟して徳川家康軍に突っ込んでいった史実は有名である。また、真田家の家紋は「六貨銭」であり、死んで三途の川で渡るための六貨銭を表したものらしい。

 私は「特攻隊」をただの異常な「隊」とはどうしても思えない。守るために死ぬことを美化しているわけではない。特攻隊で亡くなった若者の中には同調圧力等で死にたくないけどいかなければ「非国民」と言われる等と思ったり、無理やり行かされた人もいるとは思う。

 しかし、「国」を守りたいという想いを言い換えれば、その「国」は「故郷」であり、「家族」であり「大事な人」であった。その想いは非常に尊く、胸を打つものがある。

 ある話だが、ある記者が鹿児島県にある特攻隊が一番多かった「鹿屋」というところの特攻隊のところに行き、「日本は負けるかもしれないが。特攻するのですか?」のような事を、特攻兵に聞いた。すると、その特攻兵は「私たちはインテリです。日本が勝つのは難しいと分かっています。」と言ったそうだ。

 そして、「日本が負けるとしても私たちが行く(特攻)必要があります。民族の誇りと講和の条件のために・・・」と言った。

 「講和の条件」とは、戦争中の国同士が和解するための条件だが、日本が負けると分かっていてもその後の和解の条件に少しでも有利になるように考て特攻していった若者も多数いたということである。

 私の親世代は、「大東亜戦争は日本人が悪かった!日本がアジアを占領するためにした侵略戦争だ!」と刷り込まれた世代であり、私世代もそう思っている人は多い。

 しかし、当時の世界は、私的には「世界的な戦国時代」と思っており、大東亜戦争はは起こるべくして起こったと考えている。そこで、各国が自分の国が生き残るため、言い換えれば有利な国になる為に尽くした歴史であり、日本も例外ではない。

 戦争は状態ではなく手段である。戦争の対義語は平和と思いがちだが、そうではない。「戦争」の対義語は「話し合い」である。「平和」の対義語は、「混沌」である。話し合いでかたが付かないから武力に出て戦争になる。

 戦争になったら混沌状態になるため、平和ではない。しかし、お互いの国の平和のために戦争をしているので、自国にとって平和を勝ち取るための手段が話し合いでは解決しないが故に戦争が起きる。細かいことは置いておくが、ウクライナとロシアも、お互い自国のために戦争になった。

 話が少しそれたが、特攻隊に行った若者たちは、靖国人者に祀られるという物語を信じて、守るために命を落とした。私は、そこに善悪は無く、人間らしい「大事な人を守る美しい魂」を感じる。自然的な、言い換えれば動物的な本能では、特攻隊は成り立たなかったはずである。

 私は、人間は様々なものを守るために生きていると言っても過言ではないと思っている。それは自分の身やプライド等の下らない事も含めてである。 

 守るために自分の命をなげうった特攻隊は、尊い。しかし、特攻隊のような「隊」は人道的にあってはならないと私も思う。

 ただ、私自身は大事な人や物のために命を張れる気高い精神を、もし持つことが出来れば、死んでも悔いはない人生を送れるものなのかもしれないと、考えている。

知覧の特攻機年間

 

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