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無我と滅私奉公

 大東亜戦争前の仏教は、結構好戦的な考え方だったらしいです。多くの仏教徒が大東亜戦争中も戦争協力の発言をしていたということです。ちょっとびっくりですね(^_^;)

 ただ、よくよく歴史を見ると、平安時代の白河天皇は

 「思い通りにならぬもの、鴨川の水、賽の目、僧兵のみ」

 という言葉を残しています。また、織田信長の右腕と言っても過言ではない「森可成(森蘭丸のお父さん)」は浅井軍・朝倉軍と僧兵によって打ち取られました。知っている方は多いと思いますが、ちなみに「僧兵」とは「仏教徒の兵士」です。

 まあ・・・キリスト教にもユダヤ教にもイスラム教にも「兵」はいますからね(^^;)平和を唱える宗教も、平和を守るために戦わないといけないということですね。

 大東亜戦争までは、仏教界で「無我」=「滅私奉公」みたいな概念が一般的だったそうです。「滅私奉公」・・・「私を滅して、公を奉る」みたいな感じで、簡単に言うと、「自分を犠牲にして国(集団)のために尽くす!」と言う様な事です。

 以前は仏教が、滅私奉公を無我とつなぎ合わせていたことに、私自身は結構驚きました。だって・・・チョイちゃうやん( ̄▽ ̄;)

 まあ・・・「自分を滅する」からこそ「無我」というのも分からなくはないですが、それは本来の無我ではありません。

 「無我」とは、「本来、本質的や普遍的に存在する自我などない」ということです。まあ、私の解釈でもあるので、間違っていたらサーセンm(__)m

 「本質」・「普遍」等の意味は「変わることがない」ということが前提です。しかし、人間(人間に限らずすべてのもの)は確実に「変化」していきます。そうなると、「本質的な自分・普遍的な自分」というのは、実はいない事になります。

 なので、「本質的な自分・普遍的な自分」はいないことを悟ることで「無我の境地」に行きつくそうです。

 じゃあ、「無我の境地ってどんなの?」と聞かれても、分りません(;´・ω・)。だって・・・私まだ悟ってないですから(._.)。ただ、「無我」は人生の真理の1つなんじゃないかなぁ~なんて思いながら酔っている今日この頃でした(/・ω・)/

 

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yu-sinkai

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