哲学ブログ

回答論~問題と解答、どっちが先?~

「人間は、その答えではなく、むしろ問いによって判断せよ」・・・ヴォルテール

「生物の世界は進化の結果、〈なるべくしてなった〉結論である。算数で言えば、回答集である」・・・養老孟子

 養老孟子氏の本の中で、「世界は〈こうなった〉という集積の結果であって、そこで何かが問われるとすれば、いったい〈どうしようとしたのか?〉という問いであろう。」という、自然世界は「こうなった」という回答がまず先にあり、その後になぜこうなったのかという問いが来ることを説明した章があった。

 確かに・・・生物学の進化過程を考える「問い」は、進化後の生物のこうなったという「答え」から始まる。私たちは様々なものは、「こうなっている」ということから認識する。そこから「何故」という問いを考える。例えば、「なぜ人類がこのように進化したのか?」という問いの前に、「人類が進化してこうなっている!」という回答が先立つ。

 恋愛脳も同じようなところがあり、「この人が好きだ!」という回答が先に来て、その後に「何でその人が好きなのだろう?」とか、「どうしたらその人から好かれるだろう?」というような問いがくる。もちろん「お金持ちだから」、「容姿がいいから」等の先立つ理由は在るかもしれないが、本当にその人を好きという時にはあまり理由はない。何故なら、恋愛脳は本能からくる自然のものだからだ。 

 ただ、自然に限らず人間社会も回答が先立つことが多いではないかと、私は考えている。すべてというわけではないが、私自身も「大抵のことは答えは簡単で、その過程が難しい」という考えがある。例えば、仕事をするにあたりまず「お金を稼ぐ」という回答が先立つ。そこから「どうやってお金を稼ぐか?」という問いが来る。そして、職種を決める。

 もともとの生物の目的は「生きること」である。これは人間も例外ではない。そして言い換えれば、生物のすべきことの回答は「生きる」である。しかし、人間は衣食住足りて、生きることの目的は果たすことが出来るようになっても、「どう生きるか?」という問いが後からくる。そして悩むのである。

 しかし、学校教育では問いから回答を導くように教えられる。例えば「1+1=2」ということは教えられることが多いが、「2=1+1」と教えられることは、無くはないがあまりない。問題集を説くようには徹底的に教えられるが、回答集から問題をを導くようにはあまり教えられない。

 だから、回答の前に問題が常にあると、誤認をしてしまうことがあるのではないかと思う。もちろん、問題が先立つこともある。ただ、「目の前の問題は?」とよく聞く言葉だが、殆どは「目の前の回答を解決すべき問題は?」にも置き換えられる。しかし、その思考が無いから問題をまず考える人が多い。

 そして、「仕方のない物」を認めようとできなくなる。人間の進化の話に戻ると、「人間はこう進化した!」という回答がある。これは「仕方のない」事である。そうなっているからだ。そうなると、回答は変わらないので、その回答を変えようと考えても無駄である。

 勿論、回答が先立とうが、問題が先立とうが人間が悩む事には変わりがないと言えるかもしれない。ただ、悩む中でもその悩む焦点を、回答なのか?問題なのか?という視点があるだけで、意外に考え方が楽になったりするものでもあると思う。

 私自身の考えでは、人生は最終的には問題論が先立つ。それはどういうことかというと、自分の人生における回答が分からないからだ。死ぬときに自分の人生に納得したいという願望があるが、願望は目的であって回答ではない。

 「何のために生きる?」という命題があると仮定するなら、人生における回答は言い換えればある種の真理と言ってもいい。その真理を探る際に、回答が先立つことがあることを認識している方が、人生を理解はしやすくなるのかもしれない。

あべこべ

 

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