哲学ブログ

日常と個性~創るもの~

「死体というものは、実際よりも想像の方が豊かになるものです。例えば必要以上に不気味になるんですよ。でも、私にとっては、死体は想像じゃない。ただの平たい現実です。」・・・養老孟司(養老孟司の人生論)

 「唯脳論」や「バカの壁」で有名な元解剖医の養老孟司氏だからこそ、死体は平たい現実であり、言い換えれば日常であった。死体を扱う学問をしているので当たり前の話である。

 しかし、殆どの人にとっては「死体」は非日常である。「死」は必ず誰にでも訪れる事実であることは分かっており、ニュースでも日常茶飯事に「○○人死亡」等と情報が流れてくる。しかし、「死」も「死体」も私達には「非日常」である。

 ニュースで報道されるような自分に関係ない死を、養老孟子氏は「三人称の死」と呼んでいる。自分に関係のある家族や知り合い等の死を「二人称の死」と呼び、自分の死を「一人称の死」と呼んでいる。自分が死んでしまえば自分はそこにいない為、この一人称の死も自分には関係のない死ということになる。

 と・・・前置きが長くなってしまったが、世間がどう言おうと養老孟司氏にとっては「死体」は日常なのである。私は高齢者施設で社会福祉士として働いており、お客様が亡くなることは珍しくないので、何となくわかる気がする。今日もターミナルケアのお客様が亡くなり、体をきれいにさせて頂いた。

 日常・・・それはすべての人にあるものではあるが、日常は共通現象ではなく十人十色の現象であると私は考えている。

 私の日常は仕事で言えば「高齢者施設の社会福祉士」としての日常である。ご家族や医療関係者からの相談を受けることを主に生業としている。調理師でもあったため、施設の厨房にも関わることが多く、それもまた私の日常の1つである。

 つまり、私にとっての日常とは私の生業としている職業的なことを主観において展開されるわけである。同じ高齢者施設で働いている職員も、私の日常は分からない。もちろん逆も然りであり、私もその職員の日常は分からない。

 また、プライベートでも私は2児の父親であるが、父親である日常は他の父親とも共通するが、子供も十人十色であり、教育も各家庭十人十色である。また私は料理が好きなので料理は作るが、そうでない父親もいる。共働きの父親もいれば、そうでない父親もいて、今では専業主夫も珍しくない。

 そう考えれば、日常生活は当たり前にみんな日々経験しているものであるが、十人十色であり、その積み重ねが人生経験となるわけであるから、それぞれの日常で培ってきた人生観が出来るわけである。

 生まれ持った性質的な者だけを指して十人十色と言う訳だけなく、各個人個人の人生の違いから生じるのもまた十人十色の要因と言える。だからこそ、人生は他の人の人生とは違い、自分にとって変わるものが無いからこそ、自分の人生もまた「掛け替えのないもの」なのだと思う。

 ここで個性の話に変るが、養老孟子氏は「個性は脳(心)ではなく身体にある」ということを常々記している。何故なら脳(心)は「共通認識」を求めるからである。個性とは文字通りに「個の性質」であり、言い換えれば「他人と違うこと」である。

 脳(心)が他人から全く理解されない人ももちろんいる。しかし、この場合、社会はそれを個性と認めず「異常」とみなす。そして、「精神がおかしい」という判断により、精神科に送られる。

 身体はそれぞれ同じような構造であっても、十人十色である。親や子供の皮膚を自分に移植しても成功はしない。同じ家族でも身体は違うことを理解している事でもある。また、養老孟司氏は、身体こそ個性である例に、イチロー選手や大谷選手を例に出す。

 何故なら、その身体能力は「誰にもまねできない」からである。ただ、持って生まれた身体だけが個性と言う訳ではない。

 「訓練のない個性は野生に過ぎない。」・・・高田好胤

 イチロー選手も大谷選手も、その野球人生の日常の中で身体を磨いてきたからこそ、個性的な人間になったわけである。

 例えば調理師でも、シェフや花板等のいわゆる師匠から料理を学んでいくが、その学んだ結果師匠と全く同じと言うわけにはならない。微妙に味付けであったり盛り付けであったり、素材の下準備等、学んだ結果、他の人と違う自分なりの調理が確立するわけである。

 これが所謂、個性である。落語家が師匠から学んでも微妙に違うのと一緒である。

 そう考えていくと、人それぞれ日常が違い、その日常を積み重ねていくことは誰しも必ず個人的な事象であることから、個性が育たない人なんかいないと私自身は考えている。

 まあ、理屈を色々と並べたが、私は「全ての人が個性的である」と思っている。世の中自分に似た人が「3人はいる。」なんて言われるが、自分と同じ人は「1人もいない」からである。

 「自分に個性がない」と考えることは、実は「自分は特別な人間じゃない」と錯覚しているだけなのかもしれない。私自身も平凡中の平凡であり、自分自身は基本的に「the average」と思っている。しかし、個性がないとは思っていないし、これからも自分の日常を過ごす中で個性的にはなっていくと思っている。

 個性はあるものというより、作られていくものと言う解釈の方が正しい。性格や身体能力も、ある程度は自分でコントロールできるからだ。

 「個性は自分の日常で創られていく」と言って過言ではない。であれば、「自分の個性は何か?」なんて考えるより、「自分にどういう個性が欲しいのか?」ということを考え、自分の日常を見直していく方が、些か人生が面白くなる気がする。

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yu-sinkai

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