「All racism is wrong, and denying that it exists does not make it go away.」・・・Roger Ross Williams
訳すと、「すべての人種差別は間違っており、そして人種差別の存在は消える事はない。」みたいな意味です。
最近、「同族嫌悪(自分と同じようなものに嫌悪感を抱くこと)」という事に関して考えることがあります。人類の誕生は約700万年前であり、私たちの直属の祖先であるホモサピエンスは約20万年前に誕生したと言われたりしています。
ホモサピエンスはネアンデルタール人や他の人種(多分アウストラロピテクスやジャワ原人等)を滅ぼしました。犬で例えればある意味、秋田犬(なんでもいいのですが)がポメラニアンやチワワ、土佐犬等を滅ぼして、秋田犬オンリーの状態にしたのと一緒です。
人間はある種「同族嫌悪」を本能的に持っており、差別心もそこからくるのではないかとも考えたりします。もしかしたら、動物の中でも人間は「人間を絶滅させることができるのは人間だけだ!」と考えてたのかもしれません。
現代でも人間を殺す生物ランキング第2位は人間です。ちなみに一番は蚊です。発展途上国なんかは蚊が病気の媒体を広めて人を殺します。
勿論、人間以上に強い動物、言い換えれば人間を殺せる動物はたくさんいます。ただ、絶滅させようとする動物はいないです。その場でその出会った人を殺すぐらいで(チョイやんごとなきことではありますが・・・)、その理由も、食事か防衛か等のある意味自衛の殺人です。
しかし、人間は歴史的に見て、ただ「気に入らないですね!」等の理由でも人を殺してきたし、外交関係でも属国にならなければ、人を殺し国をつぶしたりもしています。同じホモサピエンス同士なのに・・・
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」を読んで、久しぶりに人間の差別心に関しても考えさせられました。ざっくり「ヴェニスの商人」を紹介すると、当時のイギリス人(キリスト教徒)が憎きユダヤ人を迫害して、当時のイギリス人から見るとハッピーエンド。みたいな作品です。
当時は「喜劇作品」でしたが、のちにはユダヤ人や人類みな平等主義から見るとユダヤ人の悲劇でもあるという事で「悲劇作品」ともいわれています。
ユダヤ人は、旧約聖書ではアダムとイブの子孫であり、それは日本神話に例えると、日本人が神の子孫であることに似ている等、共通点はあります。
しかし、ユダヤ人は神との契約で与えられた「カナンの地(パレスチナ)」が自国ではありますが、歴史的にエジプトやローマ帝国等に支配され、国がない民族となります。そして、国がない民族の為、色々と迫害をうけ、キリスト教からも差別されます。ちなみに、「ヴェニスの商人」ではユダヤ人は「邪教徒」と言われます。
ユダヤ人は国を持たず迫害され続けた民族であり、それ故に仕事にありつけなかったため、「お金」に関してものすごく研究し、「高利貸し」等、金融業を営むようになります。ちなみに当時(中世)のキリスト教は利子をとるのを禁止しており、そこでキリスト教徒とユダヤ教徒はぶつかってきた背景が「ヴェニスの商人」にはあります。
話を冒頭に戻しますが、「同族嫌悪」は差別心の中の一部かもしれませんが、どちらかというと普遍的な本能だと思います。例えば、同じような考えを持つ「友人」であればある意味親友になれると思います。
しかし、同じような考えを持つ「敵」であるならば、ある意味一番厄介な存在になるはずです。人間は「知識や知恵」を使って、普通なら勝てないような猛獣に勝ったり、時には逃げたりして生き残ってきました。
これが、同じ人類同士だとそうはいきません。同じように「知識や知恵」を武器にする人類同士は危険だという事が本能的に分かったため「同族嫌悪」という感情が出来、また同じホモサピエンス同士でも同じ考えを持つ敵は厄介なため「同族嫌悪」状態になり、「同族嫌悪」という言葉も出来たのだと思います。
私は昔から「三国志(180年~280年頃の中国の時代)」が好きで、その話から出た諺に「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言う諺が生まれます。細かい話は置いときまして、この「孔明」と「仲達」は軍師であり、お互い知略で争いました。
だからこそ、お互いに「こいつは生かしておいたら危ない」という考えになったと思います。
そして「差別心」自体は人間の本能であるとしても、「差別様式」は人工的本能な気がします。なぜなら、差別される対象者は時代背景や、その国によるプロパガンダ、その国や時代によるパラダイム等によって変わるからです。
先ほどの差別の例に出した「ヴェニスの商人」は、当時のイギリス人からしたら喜劇でした。ちなみに現代人であり、多宗教徒(こんな言葉はありませんが・・・)である私から見ると、主人公チームの方が人間的にクズい感じがしました。
ただ、日本でも私の祖母世代は「えった・ひにん」という差別されていた人もいますし、父世代が小さい頃ぐらいまでは「士族・平民」と江戸から明治になり100年たっても「士農工商」の名残があったわけで、差別自体は時代で変わりますが、差別心は本能的なところなのかなと思います。
「同族嫌悪」や「差別心」は人間の本能にあるとしても、その本能を理解して人工的に自分を教育していくことで、無くすことはできなくても、小さくすることや表に出さないことはできる気がします。
人間のにおける本能的なところを少しづつでも見直しながら科学することは、人生が少しでも面白く生きれるようにするスパイス的な思考になるのじゃないかなぁ~なんて考えたりします。