「神は死んだ」・・・ニーチェ
近代化・産業化等が進んだ時代の中で、近代的な「個人」に基づいた世界観により、脱神話化したが故の言葉である。しかし、一概に神と言っても、国や文化で神に対しての概念は変わってくる。
特に一神教と多神教で神に対しての概念はだいぶ変わってくる。神の子であるキリストによる、キリスト教。預言者であるムハンマドによるイスラム教。どちらも一神教である。(どちらも神そのものではないが・・・)日本は神道であり、自然崇拝等からくる多神教である。いわゆる八百万の神だ。様々な神を認めていた為、奈良時代から「神仏習合(神と仏を融合した考え)」が出来た。(明治初期には廃仏毀釈もあったが・・・)
「神」と「人」の違いは「無限」と「有限」、「完全」と「不完全」とも言われているが、多神教における「神」は人間よりも欲があったり、神同士で喧嘩や殺し合いがある。いわゆる不完全な部分が多く、故に多神教は祈りはするものの、「神の教え」はあまり気にしない気がする。
一神教に関しては、神が絶対的存在であり、完璧な存在であり、祈るのはもちろんだが「神の教え」を徹底的に守る姿勢がある。だからこそキリスト教・イスラム教などの一神教は、他の神を信じることは、自分たちの神を裏切る行為に当たる為、認めることができず、歴史上何度も宗教戦争があった。(ちなみに、聖書によると、神が人を殺した数:2,038.344人、悪魔が人を殺した数:10人)ただ、一神教を非難しているわけではない。
神という概念は、元々人間があらゆることに「意味」を見出すためと「不安」を軽減する為にできた概念だと私は考えている。人間は「解らないもの」に対して不安を持つ。それは、人間に限らずかもしれないが、「解らないもの」は解らないままでは生きていく上で「不都合」かもしれないという本能に起因している可能性がある。
それが故に「意味」を作る。人類(新人類)は約20万年前程登場したと言われ、19万年以上、狩りや漁で食料を調達し、自然や猛獣との闘い等の中で生きていた。そして解らないことは死に繋がるからこそ解らないことは生きていく上で不都合だった。そこで、「神」という概念を作り、解らないことは神のみぞ知るという事に至った。
今でこそ、科学により約138億年前にビッグバンが起こり、銀河や恒星の形成があり、約45億年前に地球が誕生した事や、生物の進化について解ってきた(本当の真意は分からない面もあるが)。しかし、昔は「神」という概念をつくり、「神話」が世界創造の説明の役割を担い、「神」に祈ることで、自然災害などの「解らないこと」に対して対処していた。日本神話の世界の初めも、ギリシャ神話の世界の初めも、混沌(カオス)で始まり、それぞれ「神」という概念も似ているところがある。
私は、現在「神」という概念に関して、全体的に共通することは、「祈る」ということだと思う。神は存在するか?という議論に関して、確実に概念としては存在しているというのが私の答えだ。神の存在は信じなくても、祈ることは誰にでもある。例えば、家族や大事な人が交通事故にあったり、病気になったとしたら、無事でいて欲しいと祈るものだ。その祈ってしまう「第3者」は誰の中にでも必ず存在する。
その「第3者」=「神」という概念が私の考えだ。科学が進み、世の中の摂理が理論的解かってきたが、先の読めない不安に関して、人間は祈ってしまい、神にすがってしまう生き物だと思う。故に、どれだけ科学が進化しようが神という概念はやはり消えることはない。
「仏神、他にましまさず人よりも、心に恥ぢよ、天地よく知る」・・・島津日新公
神や仏は外の世界ではなく、自分の中にいる。悪い行いをしたら、まず自分の心に恥じよ。天地(私はこの天地という言葉を「世間」と置き換えるが)はあなたの事をよく見ているものだ。という意味である。
生きる以上、どんなに強いものでも祈ってしまうものである。であれば、祈ってしまう自分を受け入れた方が、些か人生を面白く生きられるかもしれない。ただ、自分の努力等で解決できるはずのことまで、祈ってしまうことは、如何なものかと疑問に思うことも多々あるが・・・