哲学ブログ

幸福は足し算?引き算?調和?

  「幸福とは今あるものに感謝できること。簡単なようで難しく、難しいようで簡単。」・・・井上雄彦

 「幸福とは、考えること、言うこと、することが調和している状態である。」・・・ガンジー

 「幸福とは何か?」・・・哲学者をはじめとする様々な人間が疑問に抱き、考え、現代でも普遍的な回答がでていない、人間の普遍的な疑問の1つである。

 考え方によっては回答は簡単である。「幸福と思える事」が「幸福」たる所以であり、真理の1つである。

 ただ、ではどうすれば「幸福と思えるのか?」という事が、人間の課題であり、そう考えると幸福は千差万別という事になる。しかし、幸福になる為のホルモン分泌は、人間は同じはずである。

 所謂幸福ホルモンは、イライラすることなどを抑える「セロトニン」、快感を得ることができある意味で、ご褒美ホルモンと言われる「ドーパミン」、そして落ち着きをもたらす「オキシトシン」は、人間における共通のホルモンである。

 ただ、このホルモンが生成される過程は同じでも、原因は千差万別な傾向もみられると思う。幸福とは言い換えれば「気分的な満足」と置き換えても、さほど変わらない。

 満足は「満タンに足る」という事であり、「満タンになるための心の容量」は人それぞれであるため、幸福は千差万別なのではないかと私は思う。

 勿論、その人が望むカテゴリーも大事である。人間の望むものは同一ではなくカテゴリーが違う。生物学的な「食・性・眠」はもちろん必要だが、人工的な満足がさらに必要となるからだ。

 異性関係に幸福を感じる人もいれば、車などの物質的なものに幸福を感じる人もいる。本等からの知識を得ることに幸福を感じる人もいれば、旅行やキャンプ等の好奇心を満たすことに幸福を感じる人もいる。

 勿論、幸福に感じる事に関して、複数のカテゴリーを満たさないと感じられない人もいると思う。例えば、異性関係と知識を得ることの両方が、その人の幸福につながることも容易にあり得る。

 ただ、以前のブログにも書いた気はするが、「人間の考える不便は利便を生み、利便は不便を新たに生む」という事は、私は世の中の真理だと思っているが、これは幸福にも当てはまるのではないかとも思う。

 人間は、言わずもがなだが、科学を発展させ、脳化社会という都市化に成功した生物である。そこには人間にとってのみ利便なものがあらゆるところに備わっている。都会に行けば行くほど、その傾向は強い。

 しかし、利便性が高くなればなるほど、人間は不便を感じる生き物である。良くも悪くも・・・。

 車を例に挙げると、私の父親世代は車はもっているだけでブランドであったが、もちろん第1目的は移動のための手段であり、乗り心地や車の中の車内の気温等は2の次であった。移動が便利になったら、それだけでは不便を感じるようになり、暑さが問題だったためまずは冷房が進化した。

 そして、今ではDVDが見れるどころか、スマホで音楽が聴けたりするほどまで進化した。そんなに便利になった移動手段は、今度は個人で買うのは不便という事になり、シェアする傾向になったり、今後はさらに便利な車が製造されていくはずである。

 出来た当初は、個人が移動できるだけで、利便で満足できる商品だったものが、そのままでは不便で不満な商品となり、改良されてきた結果であり、今後も類似する言葉続くはずである。何故なら、それは様々な物流カテゴリーの中での歴史が物語っているからだ。 

 人間(ホモサピエンス)は不便をおぼえ、そのたびに利便にし、そのことでさらに不便をおぼえ、更に利便を進化させて、現代にいたる生き物という側面を持っていると私は考えている。

 そのこと自体は良いのかもしれない。しかし、私達人間(ホモサピエンス)は、自然的な脳や身体は1万年前くらいの狩猟採集時代のメカニズムにあり、人工的な意識(意識も脳が創るものであり、矛盾している表現ではあるが)は現代のメカニズムに適応しようとするその乖離で、色々と不具合を生じているのも事実であると思う。

 それは「幸福」に関しても同じではないかと最近考えることがある。

 「足るを知るは富む」・・・老子

 この言葉は、私は真理の一つを表現した言葉だと思う。「足る」とは「満足」と置き換えても差し支えない。この言葉を私なりに訳すと、

 「ある程度の富で満足できることを知っている人は、どんなに裕福で富があるも満足できない人よりも、精神的な富があり、幸福である」

 という事である。

 そう考えていくと、「たくさん得られるものがあった方が幸福か?」、「得られるものが少なくても満足できる方が幸福か?」、「バランスの問題か?」等という人間の幸福の命題にぶち当たる気がする。

 人間の幸福は足せばいいというわけではない。身体にも同じことが言える。日本史で有名な「藤原道長」は糖尿病で死んだらしい。現代でも多くの人が罹る病である。所謂「足し過ぎることでの病」である。

 しかし、引けばいいというわけではない。たかだか100年前以前からでも栄養失調や餓死する人も多かった。所謂「引きすぎることの病」である。

 現代の幸福は、個人個人の足すことと引くことの調和が必要であると思う。ただ、現代人は足すことの幸福になれすぎていて、引くことの幸福を覚えないといけないのかとは常々感じる。

 幸福は「足し算か?引き算か?」、時折そういう考えで、自分の幸福の目標を考えることができれば、下らないかもしれないが、人生は些か面白くなる気もする。

幸福のイメージ
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