「それはあまりたいした問題じゃない。私はいつもこの『それはたいした問題じゃない!』という哲学を持ってきた」・・・アンディ・ウォーホール
「生き詰まるのは重荷を背負っているからではないわ。背負い方がいけないだけなの。」・・・レナ・ホーン
ストレス社会・・・確かに、私たちが住んでる現代では、ストレスに満ちている!というのはよく分かる。ただ、「ストレス」≒「悪い」と言うわけではない。
人間に限らず、「ストレス」はどの生物にもある。「ストレス」は元々物理学用語であり、「衝撃を受けた歪み」をさす。(ちなみに「ストレス」という言葉は、カナダのセリエ博士が1936年にストレス学説を発表したことから始まった)
脳は「生きる」ことを最大限の目的とし、それを脅かすものが出てきたときにその「脅かすもの」に対応するためにストレスが必要だった。そこでストレスに感じるため所謂ストレスホルモンと言われるコルチゾールが分泌されるように進化した。
ただ、そのコルチゾールというホルモンには肝臓での糖の新生、タンパク質代謝、抗炎症や免疫制御などの役割を持ち、生体にとっての必須ホルモンである。そして「ストレス」事態を感じることも、生命にとって必須なのだ。
筋肉トレーニングは筋肉に衝撃(ストレス)を与え、その筋肉細胞を幾ばくか壊し、そして筋肉が前にもまして再生する応力を利用したトレーニングである。また、節制をすること・言い換えれば「我慢をする」ことは、精神的なストレスに耐えることで、さらに我慢ができるようになり、結果「生きやすく」なる。
ストレスが溜まる辛さは私もよく分かるが、ストレスが悪いという事の焦点を当てると、少し疑問に思う。私の祖父母は「大東亜戦争(第2次世界大戦)」を体験しており、貧しく空襲などもあり、それこそ「死」や「飢え」の恐怖をよく知っていた。
「人間関係が一番大変」と思える現代以上に、「死ぬかもしれない」という極限の精神的衝撃(ストレス)を受けていたり、食べる事すらままならないという、精神的にも肉体的にも非常に大きなストレスを受けていたはずだ。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)の犠牲者も今以上に多かった。私は祖父母から当時の話を色々聞いた。しかし、「大変な世の中だった!」とは聞いていたが、けっこうあっけらかんとしていた。その頃は「ストレス」という言葉がなかっただけなのか?・・・いや、表す言葉がなくても、大昔前から体感としてはあったはずだ・・・等と考えていた。
そして、ただ「生きる」ためだけに「脳」が進化したのであれば、「生きる」ためだけの「ストレス」には体制がついたのではないかという事と、「生きる」為以外の「ストレス」にはあまり対応できていない、言い換えれば、「脳」も処理できず分からないのではないかいう考えに私は至った。
今や「飢え」で死ぬ人はほとんど減ったし(世界の9%は貧困だが・・・)、戦争も減り(ロシア対ウクライナはあるが)殺人事件なども年々減っているのが事実である。人間は「生きる」ためだけのストレスはほとんど解決したと言って過言ではない。しかし、「ストレス社会」でもあるのだ。
「脳の本能」は「生きる」ためだけに対応し、「人間」はその「生きる」為以上に発達したため、「それ以外のストレス」言い換えれば「生きるためだけ以外のストレス」にはあまり対応が本能的にはできないのではないかと思う。
「ストレス」発散のために愚痴を言うが、その愚痴を言ってるうちにさらに「ストレス」が溜まる人がいるという不思議な現象もしばしばみられる。
生物は「生きる」ために、身体的に「痛覚」が存在する。(魚類等はないと言われているが、それに代わる感覚はある)。痛みがないと、危険な状態が分からないからこそ「痛覚」が発達した。これを身体ではなく精神的に当てはめたのが「ストレス」であると思う。
なので、人間も生きるためだけに必要なストレスだけは本能的に体制が備わっているはずである。しかし、現代人は自然的に生物として生きるより、人工的な世界で生きるのが普通であり、良くも悪くもストレスという言葉は「人間社会で生まれるもの」になっている。
人間社会でできたものは、人間社会でしか解決できないかもしれない。であれば、ストレスとの上手い付き合い方も、人間的な・・・言い換えれば考え方次第で、うまく軽減できるものかもしれないとも思う。それができれば、わりかし人生も面白くなるはずである。