「人は思い込みにより、事実を正確に捉えていないことがある」・・・トーマス・ギロビッチ
「社会が良くなっている」と言って、どれだけの人が納得するだろうか?刑法犯罪や未成年の犯罪件数は増え続けている、 交通事故における死亡件数は車が普及してから増え続けていると、思っている人の方が多いのではないか?
ちなみに、「刑法犯罪」は平成14年から減り続けており、平成30年と比較すると「約1/3.5」となっている。未成年の犯罪件数も平成15年から減り続けており、平成30年からと比較すると、「約1/7」となっている。
死亡事故件数も昭和45年から大体減り続けており、令和2年とひかくすると「約1/6」となっており、乳幼児死亡率も昭和30年と令和1年を比較すると「約1/21」となっている。もちろんこれらの数字が減ったからと言って一概に「全てが良くなった」とは言えない。
統計は指標であり、例えば「1%」の確率事象でも、被害者からすれば「100%」の事象であり、被害者がいることには間違いない。しかし、全体的に見たら数が少なくなっているという事は「良くはなっている」事に繋がる。
以前、「ALLWAYS 三丁目の夕日」が流行り、昭和30年代ブームが起こったが、どれだけの人が昭和三十年代の暮らしがよいと思うのだろうか。トイレは汲み取り式、冷蔵庫は効かない、エアコンもない、電話も各家庭に一台ない時代だ。
昭和30年代の生活が悪いと言っているわけではない。「あの時代は、みんながそうだった。」と言うが、「どの時代もみんなそうなのだ」。もちろん、昭和30年代の方が良いところもあるだろう。しかし、現代の生活と比べて、どちらかを選ぶことができるとしたら、おそらく現代の生活を選ぶ人が多いと思う。
多くの人が選ぶのであれば、現代の方が「良い」ということであり、昔と比べると「社会は良くなっている」といえるのではないか。しかし、多くの人は「昔はよかった」と言う。
私は東京の蒲田というところに3年程在住していた。大田区でも一番治安が悪いと言われ、東京のスラム街とも言われることもある。犯罪件数は他の地域より多いのは確かであるが、私は平和に暮らしており、特に治安の悪さは感じなかった。
「田舎」の人は比較的「都会が危ない」と思い込んでいると感じる。「犯罪を犯すのは人」→「都会は人が多く、色々な人がいる」=「危ない」となる。しかし、「犯罪から人を守るのも人である」。助けを呼んでも誰もいない田舎道の方が都会よりも危ないかもしれない。
逆もまたしかりで、誰もいない田舎道を、都会の人は怖がる。また、海外は「危ない」と思い込んでいる人も多い。もちろん日本より治安が悪いところはたくさんあるが、「治安が悪い」=「殺人事件やテロリストが多い」までのイメージになっている人もいる。
無くはないが、「殺人」は日本でもあり、テロは一部の地域だけである。(もちろん例外はあるが、それは極一部だ)
「今は昔に比べて、変な事件や凶悪な事件が増えた。」という言葉を聞くことがあるが、昔の人の方が、残酷に人を殺していたと思う。拷問の歴史を見れば一目瞭然であるが、有名な「ファラリスの牡牛」「アイアンメイデン」「釜茹ででの刑」等は、どの殺人よりも、数段に残酷な殺し方である。
インターネットの普及でSNSが当たり前の時代になると、そういうことを使用したネット詐欺がでてくる。そこで「インターネットは詐欺が多い!」と思う人がいる。ただ、ネット詐欺より電話を使用した「オレオレ詐欺」の方がまだ倍以上多い。
多分、電話ができた時も、電話による詐欺や犯罪ができて、「電話は危ない!!」と思う人もいたはずである。また、電話のない時代では「手紙による詐欺」もあった。要するに、ネットや電話、手紙等のツールが悪いことをするのではなく、詐欺や犯罪を犯す人間は基本的にどの時代にでもいて、今後もでてくるのである。
そして、その最先端ツールを使った犯罪に対して、何故かその「最先端ツール」が危ないと思い込んでしまうのである。「その最先端ツールがなければ、犯罪は起らなかったはずである!」と思い込んでしまう。
それが世の常なのかもしれないとも思ってしまう。
「人間」は基本的にいつの時代も、「社会は悪くなっている」と思う生き物なのではないかと感じる。これはある意味、どの時代でも起こりうる「普遍的なパラダイム(ものの見方や捉え方)」なのではないかと感じる。
安心なニュースより、危険なニュースしか報道されない。それは、安心な事象はニュースにならないからだ。ニュースにならないという事は、誰も興味を示さないからである。そして、例えば1件でも交通事故が報道されれば、全国各地で起きているような錯覚を起こし、今の車社会は「危ないと」と感じてしまう。そこに、現代ではどれだけの人が車を運転しているのか?という全体数(分母)は視野に入らない。
脳はまず、「生きる」ために発達した。不安に思うは「生きる」ために「危険回避」をするためであると考えている。しかも、そのことに加え、メディアが発達し、様々な情報が多量且つ身近になり、報道された事件や事故の感覚も身近になったのではないかと考える。
昔は「知らないことは危ない」程度であったのが、さらに身近な情報過多が不安の助長になっているのではないか?また不安に思いながら生きているからこそ、悩むことが終わり不安がなくなった「過ぎ去りし昔」を美化するのではないか?とも考える。
もしかしたら、「良くなっている」事や「悪くない」事があるはずなのに、それらは見えず、「悪い方」に考えてしまうのはどの時代にも起こる「普遍的なパラダイム」なのかもしれない。言い換えれば、歴史のどの時代にも、世の中を悪い方に考えてしまうパラダイムが存在するのかもしれない。
ただ、世論がどう言おうが、他人がどう言おうが、自分でまず考えて、根拠のない思い込みから少しでも脱却できた方が、下らなくも面白い人生を歩める気がする。