「僕にはヘンな癖があるけど、捨てなかった。それがぼくの個性だから」・・・ボブ・ディラン
「『人と違うこと』に価値を置くのではなく、『私であること』に価値を置くのです。」・・・岸見一郎・古賀史健「幸せになる勇気」
「個性」・・・言い換えれば「アイディンティティー」ということにもなると思う。「個性」に関しては何記事か記載して生きた。個性は「他人より優れている」と言うことではない。「個人ならしめたる」ものである。
「個性」と聞くと、他人より優れていることを想像する人も少なくない。所謂、「才能」≒「個性」と捉えている現象でもある。
他人より優れていることを「個性」というのであれば、例えば各分野のオリンピック選手の第1位が1番「個性的」であると言いうことでになる。
そうなると、「個性」ということは「能力に応じるものである」ということになる。そうであれば、「能力がない」≒「個性がない」ということになる。
私個人は個性は「全ての人間そのもの」という解釈をしている。「他人より優れている」という能力は「才能」ということであり、それは「個性の一部」とは捉えられるが、「個性そのもの」とは成り得ない。
例えば100m走を早く走れることが個性と言えば「ウサイン・ボルト選手」である。私が小さい頃は100m選手と言えば「カール・ルイス選手」であった。
ただ、彼らより早く走れる人が出現したら、彼らの「個性はなくなる」のだろうか? 若しくは「個性が弱くなる」、「個性が減る」等の現象が起きるのだろうか?
そうではない・・・彼らが100mを早く走れるのは、才能と努力によるものであり、確かに彼らのアイディンティティの1つではあるが、それ自体が彼らを個人として認識させるものではない。あくまで「能力の1つを他人に抜かれた」という状況に過ぎない。
そう・・・能力は個性の一部であり、能力そのものが個性とはならないのである。何故なら人間は様々な能力を個人個人持ち合わせており、性格や見た目も十人十色である「複合的な存在」だからである。
人間には「虚構の共有」という本能が備わっている。分かりやすい例を挙げれば「神様」と「お金」である。
複数の集団で共有できるからこそ、神様を信じれば宗教は成り立ち、お金を信じれば経済も成り立つ。
これは人間が集団生活をしてきており、共同体で生きる為の本能と言ってもいい。しかし、その本能から外れまいとする結果、他人と違うことをすることがある。
アドラー心理学の本である「幸せになる勇気」の中で、人間は承認の欲求を満たすために5つの段階があると記されている。
①「賞賛の欲求」・・・つまり褒められたい欲求を持つ段階である。
②「注目喚起」・・・褒められなくても注目してもらえる様な行動をとる段階である。
③「権力争い」・・・人に反抗し勝利することによって自らの力を誇示する段階である。
④「復讐」・・・自分を認めてくれなかったことに対してひたすら嫌がらせをする段階である。
⑤「無能の証明」・・・「これ以上私に期待をしないでくれ」と思い、自分は何もできない「愚者である」と信じ込む最終段階である。
この4段階まではこれらのことは共同体で生きる為に簡単に言えば注目を集め、共同体の中での地位を獲得するものでもある。5段階の「無能の証明」もなんだかんだで注目を浴びるための最終手段的なところもある。
とどのつまり、人間は集団生活を生きる上で他人に注目される方がより集団生活での地位が上がる等の有利になることを本能的に知っているのではないかと思う。だからこそ「個性」≒「人と違う者」という図式を考え、他の人より目立つ存在を目指すのかもしれない。
しかし、外面も内面も同じ人などいない。「個人の持つ性質」≒「個性」であると私自身は考えている。であれば「個人の持つ性質」は「頭が良い」「優しい」「足が速い」等の単一的なものではなく、非常に複合的なものになる。
そう考えていくと、すべての人間が身体能力や精神能力、人生経験や思想力が違うはずであり、言い換えればすべての人間が「個性的」なのである。それは能力的だけ見れば「平均値」かもしれないし。
ただ、人間そのものをカテゴリーとして捉えるのではなく、個人としてのカテゴリーでとらえると、すべての人間は個性的になる。人間の変わりは約70億人代替えは聞くが、個人の代替えは聞かないからだ。
個人単位で考えると「個人は変えることができない」のであり、だからこそ「かけがえのない存在」足り得るのである。故にすべての人が個性的であると言える。
「私である」・・・このこと自体が個性であると私は考えている。
「自分に個性はない」「個性的に成りたい」等と考えるより、「人間はすべて個性的である」と認識し、そのうえで「自分はこれからどう生きたいか」と思える方が、より面白い人生を生きれるはずである。