「人生は選択の連続である」・・・シェークスピア
「我々を人間にするのは選択する能力である」・・・レングル
人生を例えるときに「選択の連続」という言葉は、真理の一つだと私は考えている。人生は常に選択である。「朝何時に起きるか?」「今日何を食べるか?」「余暇時間はどう過ごすか?」等の細かい選択から、「入学はどこの学校にするか?」「どの会社に就職するか?」「誰と結婚するか?」等のターニングポイントになるような大きな選択もある。
「選択」とは「意思」と置き換えられる。人間は自分の意思で人生を生きていくことが、私自身は善い人生と言えるのではないかと思う。自分の意思で生きるということは、人のせいにしない生き方でもあるからだ。
大多数の人間は子供の頃は、親が子に変わって選択をした。親なりに子供の幸せを願っていわゆる「親のレール」を敷くわけである。何故なら子供は社会に対する判断力が未熟だからである。もちろん一概に言えないこともあるが・・・
しかし、親のレールにあまり長く乗りすぎるとある能力が奪われていく。それは「選択する能力」である。もちろん親のレールだけが選択する能力を奪うわけではない。大人になっても選択を自分でできない人もいる。理由は人それぞれであるが「選択することをあきらめてしまっている」と言うことである。
犬をつかったある実験がある。3つのグループに犬を分ける。
1.鎖につながれた状態で、電気ショックを与えるが、あるパネルを踏むと電気ショックがなくなるグループ。
2.鎖につながれた状態で、電気ショックを与えられ続けるグループ。
3.鎖につながれているだけで電気ショックは与えられないグループ。
そのあとに、その3つのグループをある部屋に連れていく。その部屋は低い障壁で2つに仕切られており、1方の床だけ電気ショックがが発生するようになっていた。電気ショックが嫌なら低い障壁を飛び越えてもう片方に逃げれる仕組みになっている。
そこで、1と3のグループの犬たちは電気ショックが嫌ですぐに障壁を飛び越えて電気ショックのないもう片方へ逃げたのだが、2の電気ショックを常に与えられていたグループの犬たちはは電気ショックから逃げようとはしなかったらしい。
2のグループの犬たちは、電気ショックから抜け出せないことを学習してしまい、電気ショックに対しての無力感を学んでしまったせいで、本来は電気ショックから逃れる事ができる環境にいても、逃れる方法を考えることをあきらめてしまったというわけである。
これを「学習性無力感」と言うらしい。
ただ、この現象は人間にも当てはまるものである。2のグループが電気ショックから逃れるという選択権を奪われたために選択をあきらめるように、家族や会社、社会等の命令や同調圧力から逸脱できない状態が続くと、「自分に選択権がない」と思い込んでしまい、選択をあきらめてしまうのである。
家族や会社、社会等と共存していくためにはある程度、選択肢は狭まってしまうのは事実である。しかし、選択することをあきらめてしまう幅が大きい人が多い。それは、狭まった選択権の中での選択すらも自分の無力感によってあきらめてしまうからなのではないかと私は考えている。
しかし、それは言い換えれば自分の人生を他人にゆだねすぎている現象である。これは私の持論であるが、他人に人生をゆだねすぎると、他人のせいにする癖がつき、様々なことに後悔する人になる。
できる限り自分の責任で選択し、自分で責任を取るほうが、より善い人生を送れるはずである。