哲学ブログ

批判的思考~否定的思考との違い~

「吟味されざる生に、生きる価値なし」                                      「あなたのあらゆる言動をほめる人は信頼に値しない、間違いを指摘してくれる人こそ信頼できる」・・・ソクラテス


 哲学は、批判的思考から始まる学問である。批判的と言えば、殆どの人があまり良い思考だと思わないかもしれない「批判をする」という事に対して、他人に対して攻撃的というイメージが強いのではないかと思う。また、「批判」と「否定」を混同している人もいる。 

 社会人の研修等でグループワークをするにあたり、ルールとして「批判的な言動はしない様に」という事をよく聞く。それは、「批判」という事を理解していない証言である。批判がないグループワークに、グループワークをする価値があるとは私は思えない。「批判」をしないという事は、相手の言う事をただ認証するだけであり、それであれば、デスカッションにはならない。ただ、相手の意見を聞くだけの事である。そこに生産性は無い。  

 何故なら、「批判的な言動はしない様に」ということは、言い換えれば「相手の言動に疑問を持たない様に」という言葉とほぼ同義語であるからだ。疑問を持たないのであれば、ディスカッションにはならない。疑問を持たなければ、賛同するしかないのである。賛同しかないのであれば、その意見は複数の人間の解釈を通す必要はなく、むしろ複数の人間の時間が無駄になる。もちろん、誰もが賛同しかないような唯一無二の素晴らしい意見であれば話は別であるが・・・

 「批判」の「批」とは、「是非を決める、良し悪しを決める」等の事であり、「判」とは「区別する、見分ける」等の事である。故に「批判的思考」とは「是非・良し悪しを、正しく区別・見分ける・導く」ための思考である。私の解釈としては、「本当にそうなのか?」という事を、エビデンスに基き理論的正しいかどうか、時には感情論も踏まえ、その事柄・事象を正しく追及していくことである。「否定」とは、「打ち消すこと、認めない事」であり、「批判」とは全くと言っていいほど別である。


 真理を追究するために、哲学者は色々な批判的思考による方法を考えてきた。哲学の父と言われるソクラテスは、若者との対話の中で、そのテーゼを深く掘り下げることによりそのテーゼの真理にを追究する「産婆術や問答法」と言われる技法を使っていた。ヘーゲルはテーゼとアンチテーゼより、ジンテーゼを導く「弁証法、アウフヘーベン(止揚)」と言われる技法を作った。例を挙げればきりがないが、「哲学」は「真理を追究する学問」であり、その真理を追究するために色々な「思想」が考慮材料になった。その根底は、「批判的」という事に起因する。


 「批判的」に考えるという事は、様々な事象に対して「疑う」ことが必須条件である。この「疑う」という言葉に対して、世論は良いイメージを持たない為、「批判的思考」に対して、良いイメージがないのかもしれない。しかし、「疑う」ことが悪い事ではないはずなのだが、世論は「疑う」=「人を信じることが出来ない」=「悪い事」という様な式のイメージを持っているのではないかと思う。

 ただ「その人の言動」を疑う事と、「その人」を疑う事は違う。


 言動や事象に関しては、「是非や真偽」が存在する。何故なら人間が創った「人工」によるものであり、その人の解釈から創られるからだ。「その人」を疑うとは、その人のする事なす事すべてを疑うというより、ただ「信じていない」という解釈である。世論的な解釈としては「人を疑う」=「その人は信じられない」ことであると思う。信じられないという事は、認めたくないという事でもある。


 それは「批判的」ではなく「否定的」である。その「疑い」に何のエビデンスもなく、その根拠は「嫌い」という感情が先立つため、「認めない」ために「疑う」となっている。だからこそ「疑う」事に善いイメージがない。言い換えれば「疑う」事は「嫌い」という感情に起因すると思っている人が多い。しかし、この場合は、「疑っている」という事ではなく、「認めたくない」という事である。それ自体は否定しないが、「嫌い」だから「疑う」事に関して、デメリット以外得るものは無いとも思う。  「批判的思考」での「疑う」という事は「その考えや事象等が本当かどうか?」と考える事であり、そこに「好き嫌い」等の感情は2の次である。もちろん人間は感情的な生き物でもある為、そこに「好き嫌い」も多少なりは存在する。


 しかし、「批判的」に考えることは「認めたくない」ではなく、「それが真理であれば、認めたい」という考えであり、「認める」ために、より深く考慮していくことである。他人の意見に賛同するのは良いが、それを「本当に正しいのか?」を考えずに賛同することは、賛同というより、ただその意見に従っているだけであり、その現象が良くも悪くも大きくなると「プロパカンダ」に繋がる。


 例えば現在のコロナ下の「新しい生活様式」や「ニューノーマル生活」等の思想も、似たようなものである。政治的という事に加え、「メディア」や「専門性を活かせない専門家」、「ただ鵜呑みにする世論」等による、コロナに対しての批判が表立ってできないため、コロナに対する過剰反応の強制が現在の日本のプロパカンダの1つになった。


 別に、生きるために「批判的思考」が必ず必要だとは思わない。もしかしたら、批判的に考えずに生きている方が楽かもしれない。「批判」がないという事は、言い換えれば「疑問」がないとも言える。疑問を持たない人がこの世にいるのか?と思うことはあるが、もし疑問を持たない人がいれば、それはそれで幸せかもしれない。

 しかし、疑問を鵜呑みにして生きる人生はつまらない。ただ、常に「疑問」を持ち、「批判的思考」を磨いていく方が、私は「よい人生」を送ることが出来ると確信している。

岩と水平線。
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