哲学ブログ

選択〜信じる・信仰〜

 「人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではありません。それは、その人の選択なのです。わたしたちの選択とは、つまるところ、わたしたちの責任なのです。」・・・エレノア・ルーズベルト

 「限りある資産を頼りにするよりも、限りない資本を活用する心掛けが肝要である。限りない資本を活用する資格とは何であるか。それは信用である。」・・・渋沢栄一

 選択とは、ある意味選ぶものを信用する行為と言っても過言ではない。選ぶものの中から、自分にとって有益になると信じてそのものを選択するからだ。有益と言っても、何も物質的な有益なことには限らない。

 時折、物質的な有益になる事を選択しない人もいる。それは、後に有益になる事だと考えている事や、自分が損しても相手のためを思う等のある意味、自己ヒューマニズム等を満たすため等の有益性のために選択することもある。

 そして、人生は「選択の連続」と言っても過言ではない。私たちは、朝起きた瞬間から寝るまで、選択をしながら生きている。ただ、簡単な選択は自分の脳がルーティン化しているため、選択しているという認識がないと私は考えている。

 勿論、人間に限らず生物全般における話でもある。しかし、思想的な事や科学的な事、医学的な事や倫理的な事等は、人間特有の選択である。何故ならそれらの選択肢は、人工的な事象の中での選択肢であるからだ。

 「信じる者は救われる。」・・・イエス・キリスト

 もともと、ユダヤ教は「神に選ばれたユダヤ人の為の教え」であったが、イエス・キリストはユダヤ人以外の人も、神を信じれば救われると説いたところから後世に残った言葉である。

 私は、この言葉は人間における真理の一つであると考えている。信じているという事は迷いがなく、迷いがないという事は、不安が無いからだ。ただ、良くも悪くもではあるが・・・

 ただ、宗教や思想的な事に限らず、科学的な事や医学的な事、倫理的な事等もそれぞれの立場から、信じるという選択をしていることに気付いていない人が多いと思う。何故なら「信じる≒宗教or思想」と思っているからだ。

 政治が分かりやすい例である。マニュフェストやその政治家を信じて、その政治家やその党に投票するわけである。自分が正しいと思い、信じて投票するという事は、ある意味、宗教の中でのある宗派を信じることと、心理的なところでは類似している。

 その行為はある意味信仰心と同じであるのだが、そうは思わない人が多い。何故なら、ある政治家に投票することにより、現世利益、言い換えれば物質的な利益が得れることを信用することであり、万民が分かりやすい「利」が背景にあるからだ。

 医学や栄養学等も、同じ作用がある。医学で言えば、同じ疾患でも医師のよりそのアプローチの仕方や、処方内容は違い、医学的な指導も異なることが多々ある。糖尿病の血糖コントロールは、医師の見解により、大分変わる気がする。

 なので、「何の治療が正しいか?」という回答よりも「どの医師の治療法が信じられるか?」という回答が先立つのである。そして、その場合は、「健康」という分かりやすい利があるため、信仰心とは思わないが、その医師の治療法や医学的理論を信じて、その意思の通りにするわけである。

 栄養学も同じようなところがある。最近では「糖分制限」というダイエットというか食文化が流行り始めている。私も、この類の本は読んだことがある。人間が生きるには糖は絶対必要だが、中々摂取出来ないため、体内で糖を微量ながらに生成する能力を人間は持っている。

 しかし、昨今では糖質をとることは簡単であり、砂糖に限らず、米やパン、麺類等は糖分を多く含むため、食さない方がいいという内容の本が多く出版されている。ある本では悪の白い三兄弟と言われるのが「精白米、精白麦、砂糖」であり、また依存性があると紹介されている。

 米やパン、麺類等は食べない方が健康になるという事である。

 しかし、炭水化物は必須な栄養素と言われ、3食に必ず「主食」という、ある意味食事の主人公的な存在でもあり、文化的にも必要不可欠とも言われる。食べ過ぎはもちろん駄目だが、食べなさすぎも駄目であり、栄養学的に良くないという事である。

 「アスパルテーム・スクラロース・アセスルファムK」等の人工甘味料も、意見が分かれる。

 「アスパルテーム」は分解されると「メチルアルコール」にもなると言われている。「メチルアルコール」は日本で戦後、不景気のどん底の時に時折飲まれていたアルコールであり、毒性が強く失明するものがでてきたため、「目散るアルコール」と言われていた。

 「スクラロース・アセスルファムK」は、自然界にはない物質であり、太らない甘味料でもある。なぜ太らないかというと、体内で分解されないからだ。分解されず、排泄からも排出されないため、肝臓に常に蓄積されていくと言われている。

 どの人工甘味料も、体に良くはなさそうな栄養素に思える。しかし、中には現代では糖分を含む料理が多い為、炭水化物や糖類をを食べないほうが体に良いという医師もおり、「アスパルテーム・スクラロース・アセスルファムK」は、血糖を上げないため、ある程度の摂取ならいいという医師もいる。

 思想的な事や科学的な事、医学的な事や倫理的な事等の人間特有の事象の中で、自分の信じるものや信じることを選択して行く必要があるということである。そこに、その根拠が乏しくとも、信じて選択して行かなくてはいけないものなのである。

 様々な人工的事象は宗教に限らず、何を信じるか?その根拠が正しいのか?等々は人それぞれであり、その自分の信じる事を選択することは、ある意味信仰に近いと私は考えている。何故なら、世の中に絶対的に正しいことは殆ど無いからだ。

 そう考えていくと、人間は選択と信仰からは逃れられず、何かしらを必ず信じて仰がないといけない生物なのかもしれない。

 ただ、そのことを理解していれば、選択は自分次第であり、その選択根拠が自分の中できちんと納得できていたり、間違っていたら柔軟に修正できるようになれば、信用や信仰の幅も広まり、些か人生を面白くできるのかもしれないとも考える。

A or Bの選択

 

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