「知者の口の言葉は恩徳あり、愚者の唇はその身を呑み滅ぼす。」・・・旧約聖書
「剣を取る者は、皆剣で滅びる。」・・・新約聖書
「本当に困難と共に、安楽はあり、本当に困難と共に、安楽はある」・・・クルアーン
世界三大一神教教はご存じの方も多いと思いますが「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」です。この3つの宗教は、同じ神を信仰しています。「ユダヤ教:ヤハウェイ」「キリスト教:ゴッド」「イスラム教:アッラー」と呼び名はそれぞれ違いますが、同じ神です。
ちなみに、「聖地」も一緒です。ですので、今まで揉めてきました。
今回は簡単にざっくりこれらの宗教についてご紹介します。ご存じの方も多いとは思いますが(-_-;)
もともとはユダヤ教から始まります。ユダヤ教の聖典は所謂「旧約聖書」と言われています。ただし、ユダヤ教の人からしたら聖書は1つなので「旧約って何?ふざけんな!」と思われることもあるそうです。なので、新約聖書とクルアーン(コーラン)は認めていません。主人公は色々登場しますが、預言者モーセが特に崇められてます。
イエスキリストが生まれて作られたのが新約聖書です。キリスト教の聖典ですね。新約聖書はイエス・キリストが主人公となります。これがキリスト教の聖典となります。ちなみに、イエス・キリストの弟子たちがイエスの教えを「福音書(良い知らせの書)」として弟子たちが残したもが新約聖書になります。キリスト教はクルアーン(コーラン)を認めていません。
その新約聖書の600年後頃にできたのがクルアーン(コーラン)であり、イスラム教の聖典になります。こちらの主人公はムハンマドであり、最後の預言者なんて言われたりします。こちらもムハンマドの弟子たちがムハンマドから教えられた神の教えを書に残したのがクルアーンになります。以外にイスラム教は旧約聖書と新約聖書は認めており、それどころか、クルアーンではユダヤ教やキリスト教の人を「啓典の民」と呼び、大事にするようにも求められています。
順番的には「ユダヤ教:旧約聖書」→「キリスト教:新約聖書」→「イスラム教:クルアーン」となりユダヤ教は新約聖書とクルアーンを認めておらず、キリスト教は旧約聖書は認めるがクルアーンは認めない。イスラム教は旧約聖書と新約聖書両方認めているというわけです。簡単な図にすると、
こんな感じです。簡単すぎて申し訳ないです(~_~;)
ユダヤ教:旧約聖書
ユダヤ教の聖典である旧約聖書は天地創造から始まります。旧約聖書は天地創造からの物語で、人間が誕生する前の話からですので、人が書いたわけではなく「精霊の力」 によって書かれたと言われています。
『神が言われた「光あれ!」』と。そこから1日目に光を創ります。そして5日までに人間以外の世界を創り、6日目に人間を創り、7日目に安息されます。なので7日目の日曜日が「神が休み給うた安息日」ということで、人間も基本的には7日目の日曜日が休日になります。
日本が日曜日が休みになったのは1868年(明治元年)に、明治時代初期の最高官庁である大政官によって布告されました。欧米化に伴い、欧米化政策の中での交易に不備があったため導入されたと言われています。なので、日曜休日はもとをただすとユダヤ教のしきたりです。
そこからアダムとイブの話があります。神は土(アダマ)の塵から男を創ります。これがアダムです。「1人は良くない」という事で、アダムの肋骨を1つ取り出し、そこからイブ(エバ)を創ります。その時はアダムもイブもエデンという園で、全裸で生活していました。
神はアダムとイブに知恵の実を食べないように命じますが、蛇がイブをそそのかして知恵の実を食べさせます。そして、イブはアダムに知恵の実を食べさせます。知恵の実を食べたせいで知恵がつき、全裸が恥ずかしいと思い、無花果の葉っぱなんかで胸や股間を隠します。
そこで神が、「アダムとイブに知恵がついたな!」と見抜き、アダムとイブに問いつめます。アダムはイブのせいに、イブは蛇のせいにして言い訳をします。そこで怒った神は、「アダムには食べるための労働の苦しみ」・「イブには子供を産む苦しみ」・「蛇には足を切って生涯地を這いずり回らないといけない苦しみ」を与えます。
アダムとイブは今まで住んでいたエデンを追放され、子孫を残していきます。そこから「アベルとカイン」・「ノアの箱舟」・「バベルの塔」等色々ありまして、アブラハム(元はアブラム)という人が登場します。そのアブラハムが神との契約により「カナンの地(エルサレム)」を授かります。
神に選ばれたのがユダヤ人の父であるアブラハムであり、ユダヤ人は神に認められたというのが、ユダヤ教のアイデンティティーの1つとも言えます。そして、その神に与えられた地がカナン(現在のエルサレム)という事です。
細かいことは置いときますが、そこからエジプト人がユダヤ人を奴隷として使っていて、その奴隷扱いを受けているユダヤ人を救ったのが「モーセ」という人です。モーセは神よりエジプトの奴隷になっているユダヤ人を救うように命じられます。そのユダヤ人たちを、神より授かりし「カナンの地(エルサレム)」に戻るように導きます。
そして、エジプトから奴隷になっている多くのユダヤ人とカナンの地を目指し逃亡します。エジプトの王であるファラオはこれに怒り、軍を追いかけさせます。そこで逃げる途中で海を真っ二つに割った話しが有名です。そこから、モーセは旅の途中にユダヤ人に神の教えを啓蒙します。それが神からモーセが与えられた「十戒」です。その神からの教えの最初は
1「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
2「あなたはいかなる像も造ってはならない」
から始まります。あとの8個はとりあえず置いときます。ここで、一神教の核である「信じる神は一つ」という事と「偶像崇拝禁止」という事が強調されます。
ただ、モーセは40年間シナ半島を放浪してお亡くなりになります。そのお亡くなりになる時に「大天使ガブリエル」がモーセをお看取りされます。
そこからなんやかんや、ダビデ王がカナンの地(エルサレム)を取り戻し、ソロモン王が引き継ぎますが、最終的にはローマ帝国によってカナンの地(エルサレム)を追い出され、132年間、ユダヤ民族は国を追われ離散します。この離散を「ディアスポラ」と言います。
ユダヤ教はキリスト教徒イスラム教のもとになった宗教でもありますが、ユダヤ教のアイデンティティーは「選ばれしユダヤの民」という事で、「ユダヤ教」=「ユダヤ人」というくらい、ユダヤ人にこだわります。また、ユダヤ人が神より授かり地が「カナンの地」であり、ユダヤ人の聖地となるわけです。
キリスト教:新約聖書
イエス・キリストはユダヤ人で、ユダヤ教でした。ただ、ユダヤ教はユダヤ人のみが救われる、ユダヤ人の為の宗教でしたが、キリストは神を信じればユダヤ人以外の異邦人も救われると説きます。
「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に神は唯一だからです。」
「信じる者は救われる。(ユダヤ人以外の人も)」
という思想で布教を始めますので、厳格なユダヤ教の長老等が「神の教えを守ってない!」と怒り、バッティングしてしまいます。ユダヤはローマ帝国の属州であったため、イエスを罪人にした後の処刑はローマ帝国が行い、十字架にはりつけにされ処刑されます。
当時のローマの処刑の仕方が、十字架に貼り付けて下から槍で串刺しにするやり方であったため、キリストも同じようなやり方で処刑されます。その3日後に復活して、色々な軌跡を起こし教えを広めていきます。
そのイエスの弟子たちがイエスの誕生から成り立ち、教え等を記録した言行録が新約聖書になります。なので、
イエス・キリスト自体がキリスト教を始めたというわけではなく、ユダヤ教の教えをさらに広めた結果、色々ありましたが弟子たちが言行録を創り、いつしか「キリスト教」と呼ばれるようになったわけです。
イエスの誕生のシーンは「受胎告知」という、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名です。大天使ガブリエルが聖母マリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と話をし、神の子を身ごもっていることを伝えます。
聖母マリアは「私は男を知りませんのに・・・」と話しますが、大天使ガブリエルは「精霊があなたに降り、いと高き力の方があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と説明をし、イエスは誕生します。
ちなみにすごくどうでもいいことで話が逸れますが、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は「ヴィンチ村のレオナルド」という意味らしく、「ダ・ヴィンチ」だけ言うと「ヴィンチ村の」という意味にしかならないので、「レオナルド」と言った方がよいらしいです。
と、話を戻しまして、イエスが処刑された場所が「ゴルゴタ(しゃれこうべ)の丘」というところでエルサレムにあり、そこにイエスの墓として建てられたのが「聖墳墓教会」であり、キリスト教徒にとってもエルサレムが聖地になります。ただ、様々なキリスト教宗派(ギリシャ正教やカトリック教会等)が複数で管理していて、結構揉めるらしく、教会の入り口のカギはイスラム教徒が管理しているそうです。
なので、イエスの墓である聖墳墓教会があるエルサレムはキリスト教においても大事な巡礼をする聖地となったわけです。
イエスを処刑に追い詰めるときに、ユダヤ人(ユダヤ教)は「イエスの血の責任は我々とその子孫にある」と言ってしまったことが根拠になり、イエスを処刑にしたのはユダヤ人(ユダヤ教)という事で、ユダヤ人は長年迫害を受けます。
イエスもユダヤ人ですが、そこは置いときましょう(^_^;)イエスの教えは平和的で、
「剣を取る者は、剣によって滅びる。」「左の頬をぶたれたら右の頬を差し出しなさい。」「汝の敵を愛せよ。」「隣人を愛せよ」
等、非暴力主義です。しかし、キリスト教の歴史で十字軍がいい例ですが、血で血を争ってきた歴史もあります。
教養や教えがしっかりしていても、それを引き継ぎ守っていくことは結構難しい事でもあるということですね。教えと信者の行動との乖離はキリスト教に限らず、ある意味普遍的に起こる現象だと思います(・_・;)
イスラム教:クルアーン
イスラム教の経典であるクルアーン(コーラン)は、預言者であるムハンマドがアッラーからの教えを説きながら布教したことを、弟子たちが残したもので、クルアーンはムハンマドの言行録です。様々な弟子たちが色々と書き留めておいたものをまとめ、650年頃に成立します。クルアーンは「詠まれるもの」を意味します。
ムハンマドは元々商人であり「正直者(アミーン)」と周りに言われるくらい直実な人だったそうです。40歳くらいの時に、洞窟で瞑想をするようになります。そこで、その洞窟に大天使ジブリール(ガブリエル)が現れます。「読め!」とアッラー(神)の啓示を出しますが、ムハンマドは「読む者ではない(読み書きができない人)」と言います。そこで大天使ガブリエルよりアッラーの啓示を口頭で伝えられ、ムハンマドは預言者となります。
クルアーンも旧約聖書の流れを汲んでますから、「アダーム(アダム)とイブリース(イブ)」の楽園追放の話や「ヌーフ(ノア)の箱舟」なんかの話もあります。ムーサ(モーセ)やイーサー(イエス・キリスト)の物語なんかもでてきます。旧約聖書と違うところでは、「アダーム(アダム)とイブリース(イブ)」はクルアーンでは神に許されているそうです。もちろん違いは他にもありますが、渇愛します。
「信仰して善行ににいそしむ者たち、これからは、衆生の中最善のものである。彼らの報酬は、主の御許の、川が下を流れる永遠の園である。永遠にその中に住むであろう。」
という教えがあります。アッラーの信仰で善行にいそしめば、死んだ後もアドン(エデン)の園で幸福に暮らせるというわけです。
「アッラーとその使徒に従わない物、かれらには地獄の火があり、永久にその中に住むであろう。」
という教えもあり、アッラーやイスラム教の使徒に従わない人は、死んだあとは7つの門からそれぞれの地獄に向かうそうで、その地獄の火は現状の火の約70倍とか言われています。火の温度は250℃~450℃と言われていますので、17,500℃から31,500℃という事になります。
ちなみに太陽の表面の温度は約6,000℃と言われていますので、少なくとも約その3倍は熱いというわけですね・・・即死ですが、死んだ後にその熱さを味わう苦痛は想像もつきませんね。
イスラム教には「六信五行」という行いが重要になりなす。モーセの「十戒」にも似てますね。その内容は、
信仰告白(シャハーダ)・・・「アッラーの外(他)に神はいない。ムハンマドはアッラーの使徒である。」
礼拝(サラート)・・・あなたがた信仰するものよ、合同礼拝の日の礼拝の呼びかけが唱えられたならば、アッラーを念じることを急ぎ、商売から離れなさい。もしあなたが分かっているならば、それがあなたがたのために最も善い。
等あります。後は以下省略で申し訳ないです(-_-;)
キリスト教は離婚は駄目ですが、イスラム教は意外に大丈夫です。もちろん、その代償はありますが・・・そんな怖いものではないです。気になる方は調べてみて下さい( 一一)ちなみに、キリスト教は離婚は駄目です。なのでフランスでは結婚せずに事実婚でパートナーになる方が多いと言われています。別れられなかったら、ある意味人生のリスクが高くなりますからね(・_・;)
ムハンマドが生まれた当時のマッカ(メッカ)では多神教も多くあり、異民族で成り立っていたこともあり、その民族であることが「アイディンティー」となります。しかし、民族同士の争いも多く、治安が悪かったそうです。そこにイスラム教を広め、民族に限らずイスラム教徒であることをアイデンティティーとしてまとめたのがムハンマドと言えます。
ムハンマドが大天使ジブリール(ガブリエル)に導かれてエルサレムに一瞬で飛び、そこから天に上り、諸預言者(多分、モーセやキリストなんか・・・)に会い、最後にアッラーにまみえたらしいです。
そのエルサレムに立った時の岩が「聖なる岩」としてあがめられて、その岩にはムハンマドの足跡が残っているとされており、その岩を覆うためにドームを創り「岩野ドーム」となります。そしてイスラム教徒にとっては聖地とされています。
ちなみに、「ジハード」=「聖戦」と訳す人がいますが、実は少し違います。「ジハード」は「アッラーの啓示に添うように努力する」みたいな意味合いで「奮闘努力」等と訳されます。なので、アッラーの意志通りでない戦争は、ジハードではなくただの戦争というわけです。
ちなみに、イスラム教の教えの中には、
『「生命には生命を、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、凡ての傷害にも(同様の)報復を。」しかしその報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いになる。』
という教えがあり、基本的にイスラム教もキリスト教と同じく平和主義とも言えます。過激派でどうのこうのという話もありますが、それはごくごく1部の人であり、イスラム教自体の教えは厳格なところもありますが、基本的に安心していい宗教だと思います。
まとめ
なので、「ユダヤ教」・「キリスト教・「イスラム教」は同じ神と同じ聖地を共有してます。しかし、教えは同じような流れもありますが、微妙に変わっていきます。私の個人的な解釈ですが・・・教えが微妙に変わることでも、中々「教えの共有」というのは難しいものだと思います。
そして、「教えを守っているつもり」でも、それぞれの人の解釈が異なります。そこに乖離がでるため、同じ宗教内でも派閥ができたり争いがあったりしてきた歴史があります。そして、それは宗教に限らないです。学校や職場でもあるものです。
ただ、「教えの共有」ができる人がいたら、それはある意味本当に色んな体験も共有できる人かもしれませんね(*^_^*)言い換えれば「思想の共有」です。最近では人間(サピエンス)が7万年前に起こったと言われる「認知革命による虚構の共有」は、「思想の共有」とも言えると考えています。
「思想の共有」ができるグループは、宗教に限らずある種の「信仰心」による、ものすごい力を生むと思います。
宗教と人間は切っても切れないつながりが、私はあると思います。歴史をみても人間の思想の始まりは、宗教的な発想から始まっているからです。一神教に限らず多神教もです。その思想により人間世界は作られてきました。
「神は死んだ」・・・ニーチェ
という、ニーチェの言葉は有名ですが、この「神」という思想が「資本」や「社会」になったことだと、私自身は解釈しており、「神から資本や社会への信仰に移った」という事で、本質的な人間の信仰心は変わらないのかなぁ~なんて思います。
でわでわ・・・(^_^;)