「人間関係における殆どの問題は、役割と目標を取り巻く曖昧な期待、あるいはお互いの期 待増の相違に端を欲している」・・・ステーブン・R・コヴィ
「人間関係は、〈相手に期待しない、相手を変えようとしない〉の修行」・・・斎藤一人
サービス業に限らずだが、お客様からのクレームは、お客様の期待と、提供するサービスの乖離が原因とよく言われる。数字で例を表すと、客様が80%以上の満足度を求めていた時に、店側が60%の満足度しか提供できなかった場合に20%の分の不満が出る為、クレームとなる。
サービス業等の商いに関しては、それが職業であるため、提供側が努力するか、クレーマーを受け付けない等の措置を取ればいい。今後も、人間は精神的にも自然的な部分よりも、人工的な部分が強くなるため、言い換えれば、利便性を求める為、何かしらに強い期待をする人が増えると思う。それは、人間の人工的な自然の沙汰である。
不満が利便を呼び、利便がさらに不満を呼び、人間は人工的な定公進化をしてきた。
ただ、自然的なものに関しても、同じように期待をし、期待が外れたら不満を持つようになり、それが顕著になっては来ていて、今後もさらに顕著になってくる。何故なら、人工的に物理的な利便と、自然に対する利便を同一で考えてしまうからである。
その中でも、人間という本来自然の存在を、人工的に考えて、「ああすればこうなる。」等のように考えてしまうことで、「ああすればこうならなかった。」時に不満が生じる。この時に、「期待を裏切られた。」と思ってしまう。そういう感情から、人間同士で「期待しあい、がっかりし合う」ような仕組みができあがってきたと思う。そして、期待を裏切られたという感情で相手を責めるようになる。
しかし、私はそこに違和感をすごく感じる。何故なら、「勝手に期待をしたのは誰か?」と考えてしまうからだ。私は「がっかりした。」という言葉が嫌いである。がっかりするためには、そこに期待という感情が必要である。その期待という感情は個人の自由でいいのだが、がっかりすると言いう感情は、人を攻めてしまう。自分で勝手に期待して、期待が外れた時に人のせいにするのはいかがなものか?と考えてしまうのである。
期待をするのが良くないというわけではない。期待をすることを選択した自分の判断能力も裏切られたときには疑うべきだと思っている。簡単に言うと、期待を裏切られたことを「自分の判断能力がないのを人のせいにするべきではない。」ということである。
私自身も100%そんなふうに思えるわけでもなく、がっかりはしてしまうこともあり、なるべく表には出さないように努めてはいる。しかし、期待をすることを選択した自分がいることを、まず認識するようには心掛けている。
「ああすればこうなる」という人工的な感情も必要ではあるが、「ああすればこうなると思ったのに、ならなかった。」ときに、時折「自分で選択した結果。」だと思える方が、人のせいにせず、少しでも人生を面白くできる考え方だと思う。