「都市社会は意識の世界、『同じ、同じ』を繰り返す世界です。そこで『違う』個性が認められるはずがない。」・・・養老孟司
先日、仕事上ある進路指導の教師と話をする機会があった。その教師と話をしていて印象的だった話が2つある。
1つは「今は個性教育が行き過ぎていて、個性を認めなければいけない。なので社会性よりも個性に目が行く。しかし、本当はまず社会性を身につけなければいけないのに・・・個性はその後でいい。」
2つ目は「私の親父は大東亜戦争を経験していた世代です。その親父が言っていたことが『日本人は欧米みたいな個性教育は向かない、社会性が身につく教育をきちんとさせないといけない民族である。』って言ってたんですよ!」
この言葉を聞いて「なるほど!」と私自身は思った。1つ目の話である「個性よりも社会性が大事」という考え方は私も元同じ考えであるから納得はすぐできた。
2つ目の考えに関しては、日本は明治時代(それ以前の江戸時も)に、積極的にヨーロッパや欧米等の所謂、西洋文明を取り入れていた。戦国時代の「堺」という都市は「貿易都市であるイタリアのヴェネツィアの様だ!」と言われていたぐらいヨーロッパ文明を取り入れており、江戸時代には「鎖国」をしながらも、西洋文化を取り入れていた。
明治時代には本格的に西洋文化を取り入れており「文明開花の時代」と言われるくらい、西洋化が進んだ。もちろん文明だけでなく、ある程度個性的を大事とする個性文化も取り入れてはいる。しかし、すべてにおいて精神的なところまでは西洋化出来なかった面がある。
明治時代にイギリスに留学した、「吾輩は猫である」や千円札でも有名な「夏目漱石」は「則天去私(そくてんきょし)」という言葉を残している。「天に則(のっと)り、私(わたくし)を去る」ということであり、訳的には「自然の道理に従って、狭量な私心を捨て去り、崇高に生きる」という意味らしい。
この言葉は仏教でいう「無我」にあたると思う。当時、西洋部文明や文化の最先端を行っていた夏目漱石でさえ、最終的には日本人的考え方や文化を西洋的にアップロードできなかったことを示していると私は感じる。
また、どれだけ西洋文明や文化を取り入れても、日本人は「天皇文化」により、社会性の最たる考え方であるとも言って過言ではない「一億玉砕」の覚悟で大東亜戦争を戦った。もちろん、すべての国民ではないが殆どの国民が「一億玉砕」や「天皇陛下万歳」と考えていたのは史実である。
「人間」・・・何故日本では「人」を表すのに「人」ではなく「人間」と言うのか?「人の間」とは何か?・・・それは「世間」である。人は世間の中にいるからこそ「人間」であるという概念である。ちなみに中国では「人間」はそのまま「世間」という意味になるらしい。人を表す言葉はそのまま「人」という一文字でいい。しかし、日本は人と世間が一体化していおり、人の表現を「人間」という。
「世間」≒「社会」と言っても過言ではない。なので日本人は元々、個人と社会を繋げて考えているということである。そう考えると、いかに西洋文明や文化を取り入れても、「西洋の精神論までは合わなかった」とも言える。
と、個性と社会性の話が少しズレたが、日本人はある意味「社会性が個性に先立つ文化」を昔から持っていると私は考えていた。しかし、最近ではそれも違うかなと感じる。
「個性」≒「他の人とは違う」という図式を頭の中で殆どの人が考えていると思う。もちろん、間違いではないが正しくもない気がする。何故なら、そこに「理解される必要」というある意味「理解による共通思考が必要」という考えが抜けているからだ。
個性的であるということは、「個性的」ということと「共通認識」ということがセットになって、初めて個性的と言われるのである。言い換えれば個性と社会性は両立する必要がある。
これは誰がどう批判や否定しようが自明の理であると私は考えている。
養老孟司氏は「身体に個性は宿り。脳は共通性を求める」ということを、色々な本で説明している。養老孟司氏のある本(多分、バカの壁)で紹介されていたのが、「精神患者が自分の排便で絵を描く人を知っている」という話であった。
排便で絵を描く・・・まさしく人と違い、個性的といえばメチャクチャ個性的である。しかし、それは芸術として認められない・・・むしろ奇異行動として非難を受ける。何故なら社会性的に認められないからだ。簡単に言うと、人と違うことをしても社会が認めてくれるような事じゃないと「個性」という者は受け入れてもらえないものらしい。
ここに、個性より大事なのはまず、社会性といってもいい「共通理解」がないとまた「個性的」とも言えない事が分かる。「個性的」という言葉は、社会や集団で認められる現象でない限り成り立たないということである。
しかし、少し考え得ることが、「個性」⇔「社会性」みたいな図式のように、個性と社会性を相反するものと勘違いしてしまうことに問題があるんじゃないかと、最近は考えている。
まあ、私自身は「個人」=「個性的な存在」と考えているので、あまり個性について深くは追究しない。ただ、「自分の個性とは何か?」、「自分のアイディンティとは何か?」等で悩んだことがあるため、「個性や社会性」に関しては、色々と学んでいるつもりである。
そこは置いといて・・・、「社会性」という言葉を大半の人は「みんなと同じ自分」と考えているのではないだろうか?そして「個性的」という言葉は「みんなと違う自分」という風に考えているのではないか?だからこそ、「個性」と「社会性」が相反するという考えになってしまう気がする。
「社会」を「集団」と置き換えた時に、集団に溶け込み集団の調和をとろうとしている人や、集団と同じ意見に同調する事に対して「個性がない」と思ってしまうのが典型的である。しかし、だからと言って集団から認められず違う行動をとったとしても「個性的」と思われない事もある。
それが、その集団にとって理解しがたい行為であり、結果としても利(理)にならないような時である。
要するに、「社会性を重んじるから個性的ではない!」、「集団に染まったから個性的でない!」、「周りと同じ共通認識を持っているから個性的でない!」等ということはないのである。むしろ、社会性や集団調和能、共通認識を持っているからこそ、そこから「個性」が育つのである。
日本人的な発想かもしれないが、「社会性の中でこそ個性が発揮される」と私は考えている。なので、「個性」⇔「社会性」という図式ではなく、「社会性」→「個性」と言う様な考えになる。
そして、細かいことを言うと「全く同じ人間なんていない」ということである。人間というカテゴリーであれば、80億人の人間が存在する。言い換えれば80億人同じものがあるということである。しかし、個人というカテゴリーで言えば1人しかいない。言い換えれば同じものが無く「変えることができない」とも言える。
個人は「変えることができない」からこそ「かけがえのない存在」足り得る。それ故に、個人個人にそれぞれの「個性」があるものだと私は考えている。
人間(ホモサピエンス)は他のホモ属(ホモサピエンス以外の人間)や動物より、社会性・共通認識・集団性を巨大なものにできるように進化したと言っても過言ではない。だからこそ、その枠組みの中でしか個性が発揮されないのかもしれないと、私は考えている。
「個性」と「社会性」・・・この2つの概念を理解し、上手く両立していければ、下らない人生も少しは面白くなるかもしれない。