「主体性こそが真理である」・・・キルケゴール
「人間は、【自覚】【創造】【良心】【意志】により、自らの価値観に基づいて、刺激と反応の間にスペースを作ることが可能である。これこそが『主体的反応』である」・・・スティーブン・R・コヴィー
人間は、何故か「人間の本質とは何か?」ということを考えるようになり、古来から主に哲学者、宗教学者等がその本質を解明しようとしてきた。現代では脳科学者や歴史学者、精神科医等から心理学者等、様々な職種が解明に試みている。
現在において、人間の本質について解明できているか?と言われれば、解明できているところもあればできていないところもある、という答えや、解明できているか分からないがそう信じるという答えがあると思う。
人間は約7万年前に認知革命がおこったと言われ、「虚構の共有」ができるようなったと言われている。また、人間の脳は生きるために存在しているため、たいていは臆病であり、悪い方向に考えてしまう傾向にある。
しかし、これらは科学的に見た人間の本質の一部である。
キリスト教の人間の本質とは、「神の像として想像された」ということであり、仏教では「一切衆生衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という、人間は誰でも仏になれる可能性を持っているという考えがあり、その仏になる可能性を「仏性」と言い、それが人間の本質という教えがある。
しかし、これらの宗教的なところは、ある種本質をついているところがあるが、それは信じているから本質お思えるものでもある。
そもそも論であるが、「人間の本質」と考えたときに、すべての人間に当てはまる本質等あるのか?という疑問が私にはある。(若い時はそんな考え等なく、「人間の本質」=「すべての人に当てはまるもの」と考えていた。)
あるAIの回答では「本質とは、物事や対象の最も重要で不変な特性や本来の性質を指す言葉です」と表示された。確かに物事の本質は重要かつ不変であるからこそ、本来の性質になりえるものというのも頷ける。
だが、「諸行無常」「色即是空」というような言葉通り、すべてのものは変化していくものである。であれば、人間の本質とは不変ではなく変化があるものでもおかしくないのではないか?とも考える。
また、「十人十色」というような言葉があるように、人間の考え方は千差万別である。これも考えていくと、「人間の本質?」という考えよりは「その人の本質とは?」と考える事の方が重要なのでは?と思う。
では、「その人の本質」と考えたときに、「その人の人格を作る核的な物」と考えられるのではないか・・・そして、「その人格を作る核的な物」とは、各々が持っている「価値観」といぅても過言ではないのではないか?
「価値観」とは、まさに十人十色、千差万別であり、なおかつ個人の人格を作る根底のものとなあるからである。
そして、価値観はその人の年齢や環境、出会いや学び等で変化していくものである。ということは、その個人を作る本質とは変わっていくものであるということになる。また、人間の価値観は1つのものだけを対象にするものではなく、様々なものを対象にする。
そのさまざまなものを対象にした価値観の総称が「自分の本質」となりえるものなのではないか?
価値観は年齢や環境、学びやその時の気分でも変わるものである。小学校から同じ価値観を貫く人もいるとは思うが、ほとんどの人は様々なことに価値観が変わる。例えば、小学生の頃は「遊ぶこと」が人生を充実にする価値観を持っていたとしても、高校生では「勉強ができること」が人生を充実にするという価値観に変わる人もいる。
また、自分の好きなアイスクリームが「バニラ味」で、いつもバニラ味を食べていたとしても、時には「ストロベリー味」を食べる場合もある。これも、気分による価値観の違いである。
「不変」という変わらないものや事象とは「すべてのものは変わっていく」という真理であると、私は考えている。そして、同じ種はいるが、全く同じ生き物はいないとも考えている。特に、動物もそうであるが、人間は特にそうである。
であれば、「人間の本質とは?」というお題を考えるのもいいが、「その個人に対する本質とは何か?そしてその本質を作り出すその人の価値観はどのようなものか?」等の、人間の個々の本質というお題を考えることも、自分の人生の視野を広げる考慮材料になる。
