「人間の運命は人間の中にある。」・・・ジャン=ポール・サルトル
「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる。」・・・マーガレット・サッチャー
「生きるとは自分の運命を発見することである。」・・・アルキメデス
「運命」という言葉ほど、単純且つ複雑、便利且つ不便な言葉は、そうそうないかもしれない。昔より、人間は原因や理由が分からないことを説明するために、自分たちの意思の存在の上、所謂「神」という概念を作り、様々な宗教が生まれた。運命もまた、人の意思を超えた存在として認識されており、各地では運命の神が存在する。(日本:福天・貧乏神、ギリシャ神話:モロス、エジプト神話:シャイ、北欧神話:ノルン、アラビア半島:マナート・・・ETC)
しかし、運命という概念を、次第に神に委ねることから、人間自身に帰結する考えも出てきた。18世紀ごろの産業革命から、人工的な進化が飛躍し、運命は神の思し召しというより、人間自身の行動の結果と考える人間が増えていた。
私は、「運命」≒「偶然、」(自分にはどうしよも出来ない事の結果)、「人生」≒「必然」(自分の努力等による結果)という考えを以前は持っていた。そして、「ターニングポイント」という、人生の転機的なことにのみ「運命」という概念を当てはめていた。しかし、「人生」は「運命」の連続とも考えられ、「偶然」や「ターニングポイント」でなくても、その起こった出来事や出会いというものも、「運命」とも考えられると次第に考えるようになった。
例えば、友人と会う約束をして、会う場合は必然であり、町端でばったり会うのは偶然だ。しかし、友人と会う約束をして食事にでも行ったときに、他の友人に会ったとしたら、「必然」からつくられる「偶然」ということになる。
「卵が先か、鶏が先か」の議論ではなく、「必然」が先か「偶然」が先かということではない。「必然」も「偶然」も互いに相互作用があり、どちらも「運命」の「素材」となる。また、ターニングポイントは人生の転機になる時だが、その転機の際の決断や成功、失敗等は、それまでの自分の人生の積み重ねの結果に左右されるものである。
「運命」の「運」は「巡り合わせ」の事を示し、「運ぶ」ということではないらしい。しかし、私はそうは思わない。(確かに巡り合う人達は、確率論から言えば奇跡に近い。)私は、「運命」=「命を運ぶものがいる」に起因する、言い換えれば人間を超えた存在「神」等に委ねられたものではなく、「運命」=「命を運ぶこと」に起因する、言い換えれば自分の行動等によるものと考えている。
私は、鹿児島の高校を卒業し、大学時代は埼玉、東京に在住した。その時に、親友と言える友人が何人かできたが(相手はそう思ってないかもしれないが・・・)、私がその大学に行かなければ、その親友ができることはなかった。しかし、学科が違い、県も違い、偶然に出会ったと言える。ただ、私、その友人達がその大学に行かないと出会う事はなかった。自分で自分の命を運んだからこそ、出会いがあったわけだ。そう考えると、運命は「偶然」を司るものであるが、「偶然」の前に、自分自身で起こした「必然」が先立つ結果ともいえる。
また、「運命」は「出会い」によく使われる言葉であり、それは何も「人」に限らず、「趣味」や「仕事」等にもあてはまる。その出会いが「人」であったら、特に異性であれば、好かれるように努力し、「趣味」であれば上手になるように練習し、「仕事」であれば成功するように熱心に励むものである。ただ、その行動は「人生」である。「運命」と「人生」はある種、相互作用となり、「運命」×「人生」=「結果」で成り立つのであれば、「人生」を変えれば「運命」も変わることになる。やはり「人生」が先立つ。
ちなみに、生まれた時から決まっていることは「宿命」であり、また別であるという認識のもとの話である。また、「運命」で割り切らないと、どうしようもないことがあることも理解している。
ただ、私は「運命」のみで解決できたり、説明できるほど、「出会いや人生は、浅くない」と考えている。