「普通の人物の立場や性格は、便益や苦痛はいつも外物からもたらされると考える。哲学者の立場や性格では、便益も苦痛もすべて自分自身からもたらされると考える。」・・・エピクテトス
「人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。普通と言われる人生を送る人間なんて1人もいやしない。いたらお目にかかりたいものだ。」・・・アルベルト・アインシュタイン
「常識」とは「普通にみんなが知っている知識・教養・判断力」等と置き換えても、さほど大差ない。「常識」によって、ある程度人間社会が成り立っているということは事実である。しかし、よく、「あの人は普通じゃない!」という言葉を聞くが、そもそも、何をもって・・・言い換えれば何を基準に、「普通」が成り立つのか?という疑問がある。
数字の世界は簡単だ。平均≒普通(細かく言えば、差異はあるが・・・)。統計学等も同じく分かりやすい。しかし、私たちの生きる世界の普通は、平均は計算できないことが多い。それこそ感覚的な世界である。
いろいろな指標を持ち出し、アンケート等にて取れなくはないが、人間はその時の考えで変わるものであり、流動性が高いものになる為、難しい。また、常識は、時代で変わる。今までの歴史を学んできても、私が生きている時代の中でも、常に変わり続けている。
ただ、変わらない普通とは、多数派(majority)の意見が正しいと思われる風潮である。厳密にいえば、百年前以降ぐらい前は(線引きが難しいが)、少数派(minority)でも権力を持っていれば、普通を作れた。権力者による同調圧力効果で、少数派を多数派に変えることが出来たからだ。(現在では中国や北朝鮮、ロシア等は権力者による常識を普通に変えることが出来るかもしれない。)
あの人は普通じゃない!」という言葉を聞くたびに、私の人生の中での経験上、違和感を感じる。私が部活に入った時、サークルに入った時、アルバイトを始めた時、就職した時等、まず聞くことは「うちは癖があるから!」、「うちは特殊だから!」「うちは他と違うから!」・・・ETC。
言い換えれば「うちは普通じゃないから!」ということになる。また、「あの人普通だよね!」という言葉より「あの人変だよね!」という言葉のほうを圧倒的に多く耳にした。私の人生がおかしいのかもしれないが、普通より変(普通じゃない)というほうが多い。
これはどういうことかというと、普通じゃないと思われる人の方が普通なんだと思う。少数派より多数派のほうが普通ととらえるならば、言い換えれば、ある程度変わってると思ってしまう人は、たいてい普通ということである。
何故か?・・・何故か人間は普通を否定するのに自分を普通だと思う性質がある。何故なら、人間は「自分の考えや自分の人生を当たり前」と思ってしまう生き物だからである。意識の性質の1つだと言っても過言ではないと私は考えている。
「人間は万物の尺度である」・・・プロタゴラス
言い換えると、「自分という人間は万物の尺度である」と置き換えられる。
この言葉は、人間の脳が意味をつくることより生まれた言葉である。他人を普通と思うか思わないかは、「自分の人生で培ってきた尺度」により個人個人が図っているものである。それが故に「自分の人生が普通」と思う人が多いのではないだろうか?
だからこそ、自分以外の人間が、自分と違うが故に普通じゃないと思うのではないか?言い換えれば「自分が普通」=「自分と違うから普通じゃない」と思うのではないかと感じる。そうなると、自分以外普通じゃないという解釈になる。
ただ、「あの人変だ!」と思うより、「あの人変だけど、人間そんなもん。それが普通!」と考えられる方が、人を否定するより、批判的かもしれないが、善い人生を送れる気がする。