「地球上の誰かがふと思った。人間の数が半分になったら、いくつの森が焼かれずに済むだろうか?」
「地球上の誰かがふと思った。人間の数が100分の1になったら垂れ流される毒も100分の1になるのだろうか?」
「誰かが・・・ふと思った、生物(みんな)の未来を守らねば・・・」
岩明均「寄生獣」より
「善と悪」、「慈愛と残虐」、「美と汚」、「天使と悪魔」等々の価値観は、基本的に生物学ではありえないと言われています。このような価値観はある意味「心理学」というより「人間学」と言った方が私的にはしっくりきます。
冒頭のセリフは、私が小学生から中学生の期間に流行って映画にもなった「寄生獣」という漫画の冒頭シーンで書かれています。グロテスクな部分はありますけど、めちゃくちゃ面白く、考えさせられる漫画です。
と・・・漫画紹介は置いときまして、「悪、残虐」等の言葉と感情に最近考慮迷子になる事があります。生きるために動物には人間の思うところの「残酷」な一面があります。「殺して食べる」です。ただ、それは生物的な本能に起因しているわけで、生物学的には「普通」となります。
そして、人間はさらに「生物的な本能による生きるため」というよりも「人間的な本能による快適な生活」のために、人間の思うところの「残酷」な多面があります。
「食べるために殺す」という事は「生物的食」は「普通」となりますが、「人間的食」となると「残酷」になる気がします。
例えば、「軟らかくてたっぷりの肉汁があるステーキ」の生産方法は、生まれた子牛をすぐに母親と引き離し、自分の身体とさほど変わらない檻に閉じ込めます。そして、そこで生涯(約4ヵ月)を過ごし、ステーキになります。
肉質が硬くならない様に、他の子牛と遊ばせたり、歩く事さえも禁じられて、初めて長距離を歩けるときは、食肉処理場へ向かうときだけです。
安い鶏肉が需要があるので、その鶏は狭い工場の中で約51日~55日で出荷されます。
「ホモサピエンス全史」という本では、その牛や鶏などの家畜を、「進化の視点に立つと屈辱の成功を収めたと同時に最も惨めな部類の動物にはいる」と書かれています。
私自身も、この「惨めな部類にはいる動物」達やそれを提供して下さる人の恩恵を受けて、生活しています。なので、それが「悪い」とか思いませんが、なんか引っかかるところがあったりもします。
生物学的な視点であれば、人間の本能に対しても「善と悪」等はなく、ただそういう生物に進化しただけ・・・という事になります。他の生物を滅ぼそうが環境汚染しようが、そういう風に進化したというだけです。
しかし、人間は人間という人種を滅ぼす可能性があるため、本能的に「善と悪」、「慈愛と残虐」、「美と汚」、「天使と悪魔」等々の価値観をつくるようにできている生物なのではないか?等と思います。
その内容は、時代時代で変わりますが・・・
また生物として長寿になるための目的があり、人間は長寿になるように快適な暮らしを求める本能があるのかな?等とも思ったりします。
「人間的な本能って何のためにあるのか?」なんて、スーパーサイヤ人の戦闘能力の高さくらい、よくわからない事を考えて、考慮迷子になっている今日この頃でした(;一_一)