「都市化が進み、頭中心の社会になった」・・・養老孟司
養老孟司氏が都会のことを「脳化社会」と表現しています。人間にとっての最大の配慮をされた都市が都会であり、それは「ああすれば、こうなる」と言うような仕組みによって造られたと言っても過言ではないです。そして、今までも何度か記載しましたが、何故か都会の方が優れているというパラダイムが昔からあります。
人間の造る街なので、「人工的要素が多い方が町として優れている」ということであり、言い換えれば「便利な街の方が優れている」という風に思う人が殆どです。それはそれで、利便性という面では都会は素晴らしいと思います。私も東京に在住していたことがありますが、私個人は住みやすいと思いました。
ただ、「ああすればこうなる」という人工の街に慣れ過ぎてしまうと、それはそれで人間として不都合が生じる気もします。人間自体も動物の一種であり、生物的本能や生物的な身体サイクル・仕組みが出来上がっているからです。また、「ああすればこうなる」を思い込みすぎてしまうと、「ああしてもこうならなかった」というときに、非常にストレスを感じます。
例えば、「他人は変えられない」とよく言われていますが、上司が部下を変えようとしたり、友人や異性なんかの考え方とか変えるように取り組んで挫折した人も少なくないと思います。おそらく、少しは変わったとしても、期待以上に変らなければ「変わってない」と評価をする人が多いと思います。
でも、人間も動物であり、感情は自然的な要素も含みますから、他人が思い通りにできるわけがないと思います。でも、人間を動物とはみなさないので「ああすればこうなる」に当てはめてしまい、「ああすればこうなる」の世界が当たり前であると、「何であいつは言っても聞かないんだ!」みたいなことになります。
また、人間は自然が見えないようになってきているというか、自然を感じることができなくなってきていると感じます。その典型的な言葉が「田舎で何もない」と言うような表現です。
山や田んぼ、畑やきれいな空、道端に映えている草や花なんかの自然は「何もない」と思われるらしいです。要するに、自然が見えない動物になっているということです。私はこのことにすごく違和感を感じています。言いたいことは分かりますが・・・なんかおかしい気もします。
自然の恩恵がなくては人間は生きていけないのに・・・なんて(;一_一)。言い換えれば自然からの逸脱をしているのに気付かず、人工的要素で何とかなると考えてしまっているということです。
最近では、5教科なんかの人工的な教育と同じくらい自然を感じる事を教えることが大事なんじゃないかなと思います。都会に慣れることも大事ですが、田舎に慣れることも同じくらい大事だとも思います。「ああすればこうなる」を学ぶことも大事ですが「ああしてもこうならないいことがある」を学ぶことも大事だと思います。
人間の動物としてのアイデンティティーは脳化です。ですが母体である身体や脳の辺縁系が司るようなところは自然です。なんやかんやで、自然的な部分は切り捨てられないですし、脳化社会はこれからも飛躍的に伸びていきますが、母体である自然的な部分を理解できた方が、生きやすくなると考えています。
自然的な世界は、人工的な世界よりも時間が緩やかだと思います。人間も本来緩やかな時間を生きるように設計できていると思います。でも、脳化社会や人工的世界にはスピードが求められます。そこに適応できないと生きにくくなるのもまた事実です・・・難しいですね( ̄▽ ̄;)
ただ、人間は自然の産物でもあり、時折でも自然を感じることができる感性を残していた方が、何となくですが・・・より良い人生を送れる気がします(^-^)。自然からの逸脱は出来ません・・・まあ、何となくですが・・・( 一一)。