哲学ブログ

見える世界~物質と解釈~

「人それぞれ歩くスピードも歩き方も違う。あなたは、あなたの歩き方しかできないが、他の人とは違う風景が見られるはず。」・・・(作者不詳)

 「事実というものは存在しない。あるのは解釈だけである」・・・フリードリヒ・ニーチェ

 「自分の見る世界」と「他人が見る世界」は違うものなのか?という疑問を高校生の時に考えていたことがある。その時は、そのことを考える考慮材料や考慮能力がなかったため、疑問を抱いたまま生活をしていた。

 おそらく、多分「自分の見る世界」と「他人の見る世界」は違うのではないかと思いながら生きてきたと思うが、今では「自分の見る世界」と「他人の見る世界」は違うものだと考えている。

 見る「物体・物質」自体は、誰が見ても同じである。「人、動物、自然・・ETC」。それこそ数字で表せるもの、例えば身長や体重、誰が見てもその数字は同じである。身長:170㎝は誰が見ても同じである。

 しかし、その身長が高く見えるか低く見えるかは人それぞれである。この場合は、「見える」という言葉を「思える」や「感じる」等の言葉に置き換えられる。視覚(視覚に限らず5感)は最終的には個々の脳が処理する。言い換えれば、視覚からの情報は、個々の脳というフィルターを通すことにより、同じ「物質」も個人個人で違う「認識や解釈」になる。

 「味覚」に例えると、「イノシン(カツオ出汁)」×「グルタミン酸(コンブ出汁)」=「うまみ成分8倍(相乗効果)」となるらしいが、数式は誰が見ても同じである。しかし、同じ料理を食べても、育ってきた環境や文化等で感じ方は人それぞれ違う。

 「視覚」よりも好みが分かれやすい。もちろん「視覚」と「味覚」は違うという異論反論はあると思う。しかし、感覚という面では共通であり、その事象を自分なりの解釈に当てはめ、認知するという1連動作は、同じである。

 もちろん、「綺麗と汚い」、「美味いと不味い」等、マジョリティとマイノリティの差はあれど、個人個人が同じ認知をすることもあり、ある程度の感覚的な共通指標、言い換えれば「共通感覚」は個人個人持っている。

 視覚にに限らずなのだが、「共通感覚」はある程度持っていないと、人間社会では生き辛い面が出てくる。しかし「共通感覚」はすべての人間に当てはまると思う事もまた、人生を生き辛くする。特に視覚に関しては、「自分も他人も同じ」と思う人が多い気がする。

 そして、その考えが強い人は自分と同じものを見ていると言いう認識から、他人も自分と同じ考えなはずだという自己解釈をする場合があるように思う。「私とあなたは違う」という当たり前の事を、意外に理解できないからこそ、自分の考えと違う人をバッシングしてしまう。

 例えば、綺麗な夜景を見て、「すごくきれいな夜景だ」と思っていると、他の人も「すごくきれいな夜景と思うはず」と考えてしまう。そこで、「あんまりきれいに思えない」と言う人がでてくると、「美的感覚がおかしい人」等とバッシングしてしまう。

 見える世界はみんな同じと思ってしまう中の1つには、「共通認識」と「同一認識」が混同してしる状態であるとも言える。「共通」は部分的に同じことを指し、「同一」はすべてにおいて同じことを指す。同一のものを見ているのは違いないが、認識は一部しか共通されない。

 先ほどの夜景の例では「たくさんの明かりがある」という共通認識はある。しかし、「たくさんの明かりがあるからきれい」という感情は同一認識に近い。同じものを見て「きれい」と「あんまりきれいに思えない」と言う解釈があるなら、同じ景色を見ていても、みている世界は違うのである。

 また、視覚から得た情報を「物体・物質」のみ、言い換えれば視覚情報は「形」のみを認識する作用と解釈してしまうと、視覚情報は「同一」していると思ってしまう。「見る」という事は、「観る、診る、視る、看る」等と用途訳が他の感覚より多い。

 以前記載したが、メラビアンの法則では%は55%の情報は視覚からとも言われている。ちなみに聴覚から38%、言語から7%の情報を得ていると言われている。視覚は範囲が広い分、意識的にも無意識的にも、多い情報を認知しているということである。

 情報量が多い分「共通感覚」はもちろん多くなる。しかし、「用途」と「情報量」が大きくなれば、それだけ「認識」や「解釈」も複雑になる。その分、「見える世界」は個人個人偏ってくる。

 人間は現在ではスマホやPCの進化によりメールやり取りが頻繁なため、「バーバル(言語)コミュニケーション」が主なコミュニケーションだと思いがちである。しかし、「ノンバーバル(非言語)コミュニケーション」の方が、もしかしたら人間の主なコミュニケーションなのかもしれない。

 何故なら、ホモサピエンス(我々の直接的な先祖)が言葉や文字を使うより、視覚や聴覚を主に使うことで生き延びてきたからだ。

 また、同じ言葉を複数の人間に言っても、解釈が異なるため反応が違うこともよくある。例えば「頑張れ!」と励ましたときに、方や「応援してもらっている」と思う人もいれば、方や「こんなに頑張っているのに、されに頑張れっていうのはパワハラだ」と言う人もいる。

 現代人は先達よりも言語的コミュニケーションには長けているはずであるが、同じ言葉でも解釈が違えば違う言葉になるということであり、これは視覚にも、もちろんあり得る。

 自分と他人は違うと本当の意味で理解できれば、他人と自分が「見える世界」が違うことを認識できる。自分と他人が「違う」ことを理解し、認めることが出来るれば、「自分と考えの違う人」に対して、「当たり前」と思える。

 「自分とは違う」という当たり前のことを、中々許容できない人が多い。しかし、「見ている風景」がそれぞれ違うことを理解できれば、「違い」を許容しやすい。許容範囲を広くしていくことも、人生を生きやすくする1つの手段だと思う。

北海道の道
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