「人生は、経験しなければ理解できない教訓の連続である。」・・・エマーソン
「人は経験から学ぼうとするが、他人の経験から学べるならそれに越したことはない」・・・ウォーレン・バフェット
人間に限らず、生物全般経験から学ぶ。そして、人間だけが他人の経験からからも学ぶことが可能である。しかし、他人の経験から学んだとしても、自分の経験ではないため、とどのつまり分からない事もしばしばあるのが事実である。
そのことを悟ったのが「達磨大師」であり、その「達磨大師」の悟りが「四聖句」と言われ、「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」である。
「達磨大師」とは仏教の中でも「禅宗」の元祖と言われる5世紀後半から6世紀前半くらいにいた人物であり、選挙などの縁起物に使われる「ダルマ」のモデルになった人物でもある。
9年という長い年月を、洞窟で壁に向かって座禅していたため、手足が腐ってなくなり、私たちの馴染みのある「ダルマ」の形になったという逸話があります。他にも諸説はありますが・・・
この四聖句の中でも、「不立文字」と「教外別伝」は、人間においての1つの真理という面もあれば、1つだけでは成り立たない思想とも思える。
「不立文字」とは、「文字では成り立たないできごと」の様なことを指し、「文字にしても伝わらないから、体験をして感じる事が大事である。」と言うような思想である。
例えば、美味しい食べ物を食べた時に、「美味しい、甘い、辛い、程よい酸味・・・etc」等は言葉で伝えられる。しかし、本当にその美味しい食べ物は、いくら文字を使っても食べてみないと伝わらない訳である。
限界まで走り続けると、「ランナーズハイ」という、気持ちがよくなる現象が起こる。脳ではドーパミンがでているなどの説明はできるが、体験しないと分からない。恋愛に関しても、好意を抱く異性に対しての気持ちは説明できても、気持ちそのものは体験した人でないと分からない。
要するに「不立文字」とは、「体験しないと分からないから、体験しなさい」という事になる。
「教外別伝」とは、仏陀の教えである経典の教えだけが伝わってきたわけでなく、別に師匠から弟子の心に直接体験として伝えることが大事であるというような思想である。
また、私個人の解釈では、「言葉によって残された教え(教外)はその情報だけを鵜呑みにせず、様々な教えを学び自分なりに考え、体験する必要がある」と言うような事でもあると考えている。
ちょくちょく私が紹介する、島津日新公の「いろは歌」の一番最初の歌は、
いにしえの、道を聞いても唱えても、わが行いに、せずばかいなし
という言葉がある。訳としては「昔の人の教え(道)を聞いても、人に話したとしても、自分がその教え通りにしないと、学んでいる意味はない。」と言うような事である。これを他の諺で言えば「論語読みの論語知らず」という事になる。
人間は、文字によって様々な情報を共有し、その情報によって飛躍的に進化した生物と言っても過言ではない。以前も記載したが、メラビアンの法則というのがあり、人間は情報を得る際に、言語:7%、聴覚:38%、視覚:55%、と言われている。
私自身は、この割合の細かいところは置いておき、人間が情報を得る際に、言語<聴覚<視覚の順はあり得ると考えている。人間も動物であり、「狩猟採集」時代には聴覚・視覚というのは文字よりも大事であったから、その本能は脳に刻み込まれているはずだからだ。
ただ、人間は認知革命により「虚構の共有」、言い換えれば「思想の共有」という本能を得た生物である。なので、文字という情報から「思想の共有」ができるようになった。そこで、「文字」から学び、その思想を共有するようになり、その効果は「億」という単位の人間をグルーピングできるほどすごい統一力を発揮する。
ユダヤ教の旧約聖書、キリスト教の新約聖書、イスラム教のクルアーン、各国々の神話から始まり、秩序を守る思想である法律など、文字だけの共有でなく、思想を共有するからこそ、成り立ち、絶大な統率力を人間にもたらしたというわけである。
しかし、文字を読む事だけで、何もかも分かったような錯覚におちいってしまうもの、人間にありがちなバグ症状の1つである。所謂「分かった気になっている」という状態である。
そこには「文字の限界」や、「教えの限界」というものが必ずある。知識や学はあるに越したことはないと私自身は思うが、知識や学というのは、人生の材料に過ぎないのである。「生きるために必要」というよりは、「個人個人がより良く生きるために必要」な材料である。
いい木材もきちんと加工して、プロの建築士や大工が使用しないといい家はできない様に、良い素材も、プロの調理師が調理しないと美味しい料理ができない様に、ただの文字や教えなどの情報は、自分の人生を創る素材にしかならない。
素材は「ただ在るだけ」という存在である。なので、「不立文字」や「教外別伝」と教えの様に、体験したり、自分なりの解釈により教えを実践していかないと、人生において得られるものが少なくなってしまうと、私自身は考えている。
ただ、経験をすればいいという問題でもないのも事実である。早く走るためには走り方の知識が必要であったり、美味しい料理をつくりたければ調理理論が必要であったり、悟りを開くには経典の知識が必要だったりするわけである。
言い換えれば、「知識や学」という素材と、それを加工する「実行力」が必要という事である。であれば学ぶだけでも、実行するだけでも、単体では不都合が生じるという事である。
「不立文字」は文字を分かるからこそできた思想で、「教外別伝」は、教えを学んだからこそできた思想である。
自分の人生をより納得できる人生にする「素材」を知り、その「素材」を加工する「実行力」を駆使することができれば、人生が下らないものだとしても、より面白く生きれるようになるわけである。