「人間がどのように進化しようと、文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはない。」・・・手塚治虫
「文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするをいうなり、衣食を饒(ゆたか)にして人品を貴くするをいうなり。」・・・福沢諭吉
「人間は動物の一種である。」と言うと納得する人も多いと思おうが、「人間と動物は同じ様な生き物である。」と言うと、納得できない人がでてくる。
人間は動物の一種であるという事は理解できるが、他の動物にはない特殊な能力を持つ存在だと考えてしまう。それは歴史上、文明を築き上げたことで確信に変わったことだと思う。
狩猟採集時代に、認知革命がおこり人間はアニミズム的な想像の産物を共有することができるようになる。所謂「虚構の共有」である。この時点では、シャーマン的なアニミズム信仰はあったが、まだ文明を築くまでには至っていなかった。
農耕や酪農もまだないこともあり、人間が他の動物より「勝っている」・「劣っている」存在である等の考えはなかったと思われる。
そこから、農業革命がおこり、人間は「穀物の奴隷」となりシュメール文明、インダス文明、インカ文明、アトランティス文明等、様々な文明が出現する。そこから、人間と動物との区分、または人間同士の区分が明確に意識付けされた。
そして、文明により人工化が進み始めてから、「生物としての人間」、「人工としての人間」と同一性を保ちながら乖離が存在するようになったとも言える。
例えば、狩猟採集民族時代の遺骨と農耕民族になってからの遺骨を比べると、農耕民族は狩猟民族よりも多くの疾患を抱えることとなる。その代表は現在でも多く存在する「椎間板ヘルニア」である。また「関節炎」・「その他のヘルニア」等の疾患も多くなった。
私たちは、歴史を振り返るとご先祖様は農耕民族だったから、農耕民族に適したの身体機能があると思いがちだが、実は農耕をするように人間の身体は作られていないのである。
勿論、現代のホワイトカラーの職種の様に、椅子に長く座るようにも身体は適していない。だから農耕が始まってから現在まで、私たちは「ヘルニア」になる高リスクを背負っているのである。
それに加え、土地の奪い合いなど人間独特の同族争い、いわゆる「戦争」がより頻繁に起こるようになる。縄張り争い程度は同じ生物同士でもあり得るが、千や万、時には億と言う単位で同じ生物が争う動物は人間だけである。
しかも、狩猟採集時代には同じホモサピエンス同士で千単位以上の戦争は無かったと推測されている。その答えは簡単である。「自然的に必要なかった」からである。ただ、他のサピエンス以外の人類との戦争はあり、サピエンス以外のホモ属は滅ぼしたが・・・
文明は人間を自然的環境から人工環境的に変化していくことでもある。それは農耕から始まり、酪農により人間に従う家畜を育てるようになり、神話の発明から唯一の神の教えや現神人という王や王女を創り、文字を開発して法律を創る等、虚構の共有能力を拡大させていった。
その後、科学が発展していくことで自然現状さえも人口現象で塗り替えていくようになる。電気がいい例である。エジソンが電気を発明し普及することで、ある意味、人間は夜や闇を塗り替えることに成功した。
世界最速の動物はチーターと言われており、その最大速度は120kmになるとも言われているが、車や新幹線、飛行機等の科学は、自然が生み出した動物の最速をも軽々しく凌駕する。パワー関係でも同じことである。
人工の産物のおかげで、私たちは本来どの生物よりも何不自由なく食物連鎖の頂点に立ち、文明に守られた各国や地域の文化により、殆どの人間が飢えることなくどころか、快適に生活できるようになった。
そのこと自体は、私自身も有難いと思うし、文明を否定しているわけでもない。むしろ肯定している。現代人である私は、トイレも水洗トイレでないと嫌であるし、パソコンやスマホがないと生活しづらいし、車がないと不便であり、様々な人工的産物の恩恵により私の生活は成り立っている。
しかし、人間は「人工的存在の前に、自然的存在であり、身体や脳は自然的なままである部分の方が多い。」と理解していた方が、生きやすくはなるのではないかとも思う。
例えば、最近は「糖質ダイエット」や「食トレ」等の、炭水化物(糖質+食物繊維)を控えることが、ダイエットや健康に役立つという栄養理論が主流になりつつある気がする。私自身もそう考えている。
人間の身体には糖新生という能力が備わっている。簡単に言うと、必要な糖質(ブドウ糖)を体内で自ら作る能力である。身体にとって「糖質」は欠かせない存在であるが、狩猟採集時代は糖質の摂取が食物だけからでは難しかったため、糖新生という自然能力を進化の過程で得たわけである。
タンパク質には必須アミノ酸、脂質には必須脂肪酸、というものが存在する。これは、人体で生成できないため、食物からしか摂取出来ない。食べることが必須である栄養素というわけである。しかし、糖には必須糖質などというものはない。
必須アミノ酸や必須脂肪酸と聞くと、ものすごく重要で摂取しにくい等と思ってしまう。確かに栄養素的にはものすごく重要なのだが、言い換えれば、狩猟採集時代から摂取しやすい栄養素であったとも言える。
糖質は摂取が難しかったため、人体で生成できるようになるとともに、少しでも糖質をとれる機会があれば、食べ過ぎてでもいいので、本能的に糖質を主に求めるように人類は進化した。生き残るために。
しかし、農耕が始まりその結果普及した疾患が「ヘルニア」等以外にもある。「糖尿病」である。糖尿病は紀元前1500年頃の古代エジプト文明での記録が残っている。紀元前600年頃にはインド文明にも記録が残っており、日本では「藤原道長」が糖尿病であったと言われている。
その頃の糖質の主な食物は「米・麦」の主食である。人間は動物としての本能により糖質をより沢山取れるように農耕という文明で対応できるようになるが、文明に身体が対応できていないため、整形外科的には「ヘルニア」、内科的には「糖尿病」という、バグを生むことになったと言える。
そして、そのバグは現代においても拡大しながら続いているわけである。
何度か記載したころがあるが、このような現象は身体面だけでなく、精神面にも拡大しながら起きており。「うつ病」や「パニック症候群」等の精神疾患である。
「人間は変化に強い生物である。」というと、納得する人が多いと思う。
「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは変化に最もよく適応したものである。」・・・ダーヴィン
だからこそ、人間が食物連鎖の頂点に立ったとも言えるのかもしれない。しかし、些か疑問に思う。それは・・・
人間の人工的産物である意識という性質(能力)は、変化に適することと、変化を起こすことを得意とするが、人間の自然的な身体・脳というのは、人工に適応できていないため様々なバグを起こすのではないか?
という事である。言い換えれば、人工的文明に人間の自然的部分は対応できておらず、それが身体的・精神的な様々な不具合を生じさせているというところである。
そして、その不具合を今のところ防ぐには、それもまた人工的意識、人工的教育によるものではないかと考えている。
ヘルニアにならない様に姿勢を気を付ける。
本能的に糖質が取りたくても、人工的に我慢する。我慢ができなければその折衷案をさぐる。
そもそも人間も自然的な生き物であるから、希望よりも不安が先立つようにできている。
等々、根本原因を知っていれば解決策も見つけられる可能性がでてくる。
勿論、文明と自然の乖離で不具合が生じても、それを受け入れることの方が幸せな場合もある。例えば飲酒や喫煙などが、私に当てはまる物である。
私自身も文明の恩恵の中で育ち、生物的に生きることに関しての不自由はないし、戦時中みたいに「生き死にの不安」等もない。しかし、不安や不満、不幸を感じる事もある。そして、それが何故か分からず生きている。
文明と自然、人工と動物というカテゴリーに分けて人間を考えてそれを集約すると、もしかしたら、自分でも分からないような感情の回答の片鱗が見つかるかもしれない。それらは、少しでも人生を面白く生きるための材料になる気がする。