哲学ブログ

利便と不便~普遍的なジレンマ~

「人間がどのように進化しようと、文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはない。」・・・手塚治虫
「ディズニーランドが完成することはない。世の中に想像力がある限り進化し続けるだろう。」・・ウォルト・ディズニー


 人間は不便だという思いから、文明をつくり、利便性を求めてきたと言っても過言ではない。例えば、狩りや採取時代であれば、数万年から数十万年前から獲物を手早くとる為に弓矢が発明され、人間が「穀物の奴隷」になったことにより、鍬をはじめとする農機具が発明された。


 利便性を求める為に、様々な製品が発明されてきた。近い歴史で言えば、昭和時代の3種の神器「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」や新3種の神器「カラーテレビ・車・クーラー」が有名である。 現代でもそれ以上に利便性を求めた商品、言い換えれば便利な製品が次々と発明され続け、インフラも進化し続けている。


 しかし、利便を求めるが故に、便利になったとしても、さらに便利なものを望み、そこに想像力を働かせることにより、不便を感じるようになるという、「普遍的なジレンマが」必ず存在する。


 電話を例にすると、昔は家庭に1台もなく、地域住民やアパート等のグループ単位で共同使用していた。そこから家庭に1台普及し、黒電話のダイヤル式からプッシュ式になり、ワイヤレスになり、個人携帯が普及し、今では携帯電話にPC機能までついている。


 電話がない時代は、グループ単位で共同利用しても便利と感じていたはずだが、そこから利便性の追求を続けることで不便性を感じるようになり、利便性と不便性の相互作用により、今ではほとんどの人がスマホを利用している。そして、様々なアプリが開発されるようになり、便利だと思っていたアプリも、利便性を追究するための想像力により、時間がたつと不便なものとなり、新しく便利なが開発されていく。


 このように、便利→不便→便利という構造を繰り返し、「人工」は進化していく。ある種生物の進化論と似ている気もする。 もちろん、それは悪い事ではなく、「人工」という意味で言えば、間違いなく進化であると、私は考えている。しかし、人間が「人工」という部分だけしか意識しないようになると、それはそれで心配になる。


 例えば、都会から田舎に来ると、殆どの人が「何もない」という表現をする。綺麗な木や花等の自然、田んぼや畑、雄大な山等、色々あるが、「自然」は「人工」にとって役に立たないから、意識として見えない存在になっている。人工的意識が強すぎると、自然は無意味な存在と意識づけるのである。都会は人間にとって無駄のないように設計されているのがいい例だ。


 しかし、人間は動物の1種であり、自然の1部であることも事実である。だからこそ、「人工」に意識を当てすぎると、不具合が生じる。例えば、人間の体は長時間椅子に座るようには進化していない為、長時間椅子に座っていると「腰痛」になる。大きな音で音楽を聴いていると、精神的なストレスは解消されても、自然に備わっている聴覚的にはストレスが大きいため「難聴」になる。


 また、人は体温を調節するために汗をかくが、クーラーの効いた部屋にいると、その体温調整能力はおかしくなり、疲労感が出る。食事に困らなくなったことにより、餓死する人は殆どいなくなったが、人間の自然的な必要エネルギーを超えた食事が普及したため、糖尿病も増えている。
 

 利便性を求め、人工的進化をしていくのは良いのだが、人間は「自然の産物」であることも考慮しないと、身体的だけでなく精神的にも不具合を起こす。何故なら人工の世界は「ああすればこうなる」であるからだ。


 それが当たり前になりすぎると、「ああしてもこうならなかった」時に、非常にストレスを感じてしまう。だからこそ、便利な世の中になって良くなっていっているのだが、精神疾患の患者が増えていたり、自殺者がでたりしているのではないかと、私は考えている。

 また、同じ人間同士でも「ああすればこうなる」と思っている案外多く人がいる。「あの人は言っても分からない!」、「いうことを聞かない!」、「言うことが理解できない!」等・・・ETC、しかし、それは相手の人間が自分の思い通りに「ああすればこうなる」と思っているが故のストレスである。

 人間の「天然人工知能」は、自然の部分を多く締めている。
 

 「人工的な進化」をしながら、利便性を追い求めていくのは人間の人工的な本質の1部である。しかし、人間の本質の1部に「自然」がある事も理解している方が、不具合が少ない人生を送れる気がする。

都会と自然
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