哲学ブログ

二項対立〜側面・時代・視点・価値観〜

「善人は不善人の師なり、不善人は善人の資なり。」・・・老子

訳:「善人は善人でない者の手本である教師であり、善人では無い者は善人の手本にならないことが手本になる反面教師となる。」みたいな解釈です・・・多分(*^_^*)

「汝善ならんとせば、まず汝の悪なるを信ぜよ。」・・・エピクテトス

訳:「あなたが善人になろうとするならば、まず自分にある悪の心があることを知りなさい。」みたいな解釈です・・多分(*^_^*)

私個人の解釈が入っていますので、違ったらすみません<m(__)m>

 「二項対立」とは、「神と悪魔」・「善と悪」・「精神と身体」・「大人と子供」・「文明と自然」・「仕事と私生活」・・・等の、2つの概念の対立をさせる思考のことを言います。この概念は、生物的や人工的な事ではなくい人間自身の本能に起因する概念だと思います。

 世界最古の宗教は「ゾロアスター教」と言われています。ゾロアスターは英語読みにすると「ザラシュトラ」となります。紀元前1000年頃に古代ペルシャにゾロアスターという宗教家が生まれて、広められた宗教です。

 ゾロアスター教の教えは「善悪二原論」と「最後の審判」が大きな特徴です。

 ゾロアスター教の最高神は「アフラ・マズダー」という神で、その最高神が世界を想像しました。しかし、世界には「善い神のグループ」と「悪い神のグループ」が存在していて、常に争っているという世界観です。善い神のグループも悪い神のグループも七神いて、楽しい日々が続いているときは善い神のグループが優勢、苦しい日々が続いているときは悪い神が優勢という事を教えます。

 そして、最終的には世界の終末に最高神であるアフラ・マズダ―が最後の審判を行い、正者も死者も含めるすべての人間が善悪の裁判にかけられ、善人は天国に行き、悪人は地獄に行くという設定になっています。なので、最後の審判で天国行けるように、善行を積む必要があるというメッセ―ジが添えられています。

 世界最古の宗教は、「神と悪魔」・「善と悪」の2項対立から成り立っているというわけです。ちなみにゾロアスター教は世界三大一神教である、「ユダヤ教」・「キリスト教」、「イスラム教」にも影響を与えたとも言われています。

 人間は約7万年前の起こったと言われる「認知革命」から、おそらく物事を「対立させる、2パターン」に分けるようになったんじゃないかと思います。そして、その2パターンに良し悪しをつけて様々なことを説明してきましたわけです。2つの事柄を対立させることは、善し悪しが分かりやすいからかもしれません。

 ゾロアスター教に限らず、キリスト教では「神とサタン」、論語では「君子と小人」、文明開化では「都会と田舎」、等と様々な対比するものを概念化し、一方を善いものと捉え一方を悪いものと捉えることで、ある意味思想のバランスを保ってきた側面があると思います。そして、その二項対立の向かうベクトルが真逆なため、様々な争いが起きることもしばしばあったわけです。

 キリスト教の教祖であるイエス・キリストの処刑は、キリストの教えとユダヤ教の教えの二項対立による摩擦により行われたと言ってもいいと思います。戦争も、戦争をしあう国同士の利益や思想等の二項対立の摩擦と言っても過言ではありません。そして、私たちはこの二項対立を組み立ててしまうという思考回路を人間の本能として持っていると思います。

 ただ、その二項対立をつくってしまう本能はしょうがないですが、その作ってしまう二項対立にたいして疑う事はできます。そして、時代や世論、自分の考えの二項対立を疑う事は結構大事なんじゃないかなぁ~なんて思います。

 例えば、「男と女」を二項対立で考えた時に、「男はこうあるべき」、「女はこうあるべき」という考え方をします。「男は家事をするべきではない」、「女は仕事をするべきではない」なんて、私の親世代は大半がこう考えていたわけです。今ではそれが正しいと考える人は少なくなっていると思います。これは、その時代の世論に流された二項対立という事になります。

 シェイクスピアの作品に「ヴェニスの商人」という有名書物があります。キリスト教視点からユダヤ人を一面的に悪に描いる一面がある作品です。キリスト教から見たら喜劇作品でもありますが、ユダヤ人から見たら悲劇作品となります。どちらにも属さない私からすると、喜劇なのか悲劇なのかすらわからないです。この書物ははある意味一方からの視点で成り立つ二項対立という事になります。

 中世ヨーロッパで行われた忌まわしい出来事に「魔女狩り」という物があります。これは当時は正義でしたが、今では悪です。ナチスドイツ時代のユダヤ人大虐殺であるホロコーストは、当時のドイツ人からしたら正義でしたが、もちろん現代では悪の所業と言われています。大東亜戦争時代は日本も同じように言われています(この辺は個人的に納得できないところも多々ありますが・・・)。時代や思想による二項対立の転換という事になります。

 「文明と自然」は時には文明が大事と言われたり、時には自然が大事と言われたりします。本来どちらも大事であるはずです。人間の思考の中で、時と場合により立場が逆転する二項対立というわけです。しかし、文明と自然はどちらも人間に必要であり、「対(つい)になるもの」だと思います。対になるというのは、「二つそろって一組になる」と言うような意味です。

 また、「薬と毒」は2項対立にもなりますが、薬が使い方によっては毒となるように「薬=毒」になるという考え方も出来ます。この薬であり毒であるような、両義的かつ決定不可能性を持つものを、古代ギリシャでは「パルマコン」と呼びます。二項対立の中には、このようなパルマコン的なものも存在します。

 二項対立は思想であり、それはその時代や側面、視点や世論、個人の考え方で立場が変わります。2項対立は「ある価値観」を背景にしているという事であり、多くの人に認められた「是と非」があってもそれが真理ではないという事です。そして、大体の人は、ある種の2項対立を創る時に「自分をプラス:他者をマイナス」のベクトルに向けて考えがちです。「自分が正しく、相手が間違っている」のよういに・・・

 そこで、自分から見た他者のマイナスが本当にそうか?と考える事は結構大事だと思います。「大人と子供」というのは、常に大人が正しいわけではありません。子供側の言い分を聞くと大人が間違っていることに気付くこともあります。職場でも「上司と部下」という2項対立が存在しても、必ずしも上司が正しいわけではないです。

 このように、2項対立の中で是と非を分けた時に「非」と思うことを「本当に非なのか?」と深堀することで、ただの「是非」という発想よりより効果的な考慮ができるようになると思います。「子供の意見を聴ける大人」や「部下の意見を理解できる上司」の方が意見を聞けない人より、世界観や考慮幅が広いことになりますから。

 2項対立は生活の至る所でよくあります。その際にマイナス要素であると思われる方に目を向けて、再度その価値を疑い別の論理を考えることは、下らない事かもしれませんが、意外に人生を面白くする手法なんじゃないかなぁ~なんて思います(>_<)。

二項対立のベクトルイメージ

 

 

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