哲学ブログ

考慮と感情~判断基準~

「世の中は考える人達にとっては喜劇であり、感じる人達にとっては悲劇である」・・・ウォルポール

「人間ならば誰でも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」・・・ユリウス・カエサル

 考慮とは、何かしらの行動を起こす前や起こしながらも、色々な要素を考え合わせる事であり、感情とは、何かしらの状況や対象に対して、主観的な個人独自の意識や態度、価値づけをすることである。

 そう定義した時に、人間は考慮と感情どちらが先立つかと考えると、おそらく感情が先立つようにできているのではないかと思う。何故なら感情は本能から起因している可能性が高いからだ。だからこそ感情的な人が多い。

 人間は生まれた時に「泣く」ことから始まる。空腹や不快感等を表現するときは「泣く」ことで周囲に伝える。その後に楽しい事や愉快な事等に対して「笑う」ことを覚える。感情的なことを表現することから始まるのである。

 その後、言葉を覚えることにより「考える」ことが出来るようになる。なので、感情とはもともと本能に起因するものと言っても過言ではない。成長するにつれて同じ「喜怒哀楽」等の性質は、個人個人で変わって来るものではあるが、基本的には感情である。

 それ故に、考慮しているつもりでも感情が先立つことが多い。例えば「出来る工夫より出来ない理由をまず考える。」、「人の良いところより悪いところに目が行く」、「物事が良くなっているが悪いことしか見えない。」等という悲観的(ネガティブ)思考を持つ人が多い。

 そのネガティブ思考はある種、本能的な感情と言っても過言ではない。マズローの5段階の欲求では、第1の欲求は「生理的欲求(食・睡眠・性等)」であり、第2の欲求は「安心・安全」である。ネガティブ思考はある意味この安心・安全という欲求に起因し、それは本能に近い。

 「出来る工夫より出来ない理由」が先立つのは自分が安心したいがためである。「人の良いところより悪いところに目が行く」のは、自分の優位性を保つためや、相手に警戒をしやすくするためであり、言い換えれば、安心・安全のためである。「物事が良くなっているが悪い事しか見えない」のも、悪いところから身を守るためである。

 勿論一概には言えないが、不安や恐怖等があるから身を守れる半面、ネガティブな思考に成り得るという面がある。であれば、ネガティブな思考はある種本能に起因する感情が考慮や思考より優位になっている。生きる上で用心するためにはある意味、ネガティブな思考も大事である。

 しかし、人間は生物としての自然的な本能もあれば、人間としての人工的な本能もある。それが「考慮」である。人間は生き抜くために「考える」事に対して定公進化した動物と言っても過言ではない。だからこそ、人工的本能が自然的本能を凌駕することもある。

 人間は不安や恐怖、リスクがあっても「考える」ことを武器に進化してきた動物である。だからこそ、「Try and error」を繰り返しながら科学が発展した。もちろん科学だけに限らず、様々な学問も発展してきたのである。

 バランスの問題でもあるが、この安心・安全等の欲求という本能に起因する感情により、悲観的になりやすいが、そこを人工的に「考慮」することで、物事の真意を考えていく方が正当な判断ができる。

 上記で述べたネガティブな考え方も「出来る理由を、どれだけ考慮しても出来ない時はできない。」、「人の良いところを探しても、悪いところの方が多い。」、「物事がどれだけ良くなっていようが、根本の悪い問題が大きすぎると、全体的に良くはない。」等と同じ結果でも「考慮」が入れば、それは真意に近くなる。

 勿論、考慮することで「出来ない理由より出来る理由」、「人の悪いところも目に付くが、良いところもある」、「物事の悪い面はあるが、良くなっているところもある」と考えることが出来る可能性もある。

 人生はある意味「判断(選択)の連続」である。それは、日常の中で当たり前の行為になっている「無意識な判断」が多いからこそ気付きにくい。例えば「朝起きて仕事や学校に行く」こと等、当たり前なことも、「当たり前のことをする」という判断に基づくものである。

 些細なことから大きな事まで判断をしていかないといけない人生の中で、感情が先立つとしても、その後に考慮を加えることが出来るか出来ないかで、その生き方は大分変わってくる。

 もちろん、人間が感情的な動物であるという一面がある以上、感情を切り離して理論だけの正論を唱えても、それが現実の正解と成り得ない時もある。しかし、人間は「考慮」を武器に進化してきた側面もあるため、感情だけでは成り立たない。

 物事を判断する時、感情と考慮の相対関係が必要だと私自身は考えている。その比重はその物事や事象によって必ずしも50%50%というわけではないが、双方が必要なのは間違いない。

 ペシミズム(悲観主義)もオプティミズム(楽観主義)それらの一面は人間に必要である。そして、現実を生きる以上はもちろんリアリズム(現実主義)も大事である。

 考慮と感情だけの2面性だけで表せるほど人間は単純ではないが、その2面性の相関がうまくいくことで、より良い判断基準となり、判断の連続である人生を幾ばくかは、面白く生きられるのではないかと思う。 

サイコロの上で考える男性

 

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