「真実は行為に示され、それを飾る言葉はない」・・・シェイクスピア
哲学の定義は、様々に考えられているが、私の解釈では基本的に「真理」を追究する学問であると考えている。現在では、哲学は文系の領域の学問であるが、哲学発祥と言われる古代ギリシャでは、哲学と同時に、数学や幾何学、物理学を学んでいた哲学者は多い。何故なら1+1=2は絶対真理であり、数学や幾何学、物理学もまたある種の真理を求める学問であるからだ。
そこから、アリストテレス発祥の形而上学という、「形を超えた学問」が作り出された。形而上学とは、感覚や経験を超えて世界を実在化し、その普遍的な原理について理性的な思考により認識する哲学分野の1学問である。哲学がスピリチュアルな学問になるきっかけの1つと言っても過言ではない。だからこそ、唯心論と唯物論等の議論でバッティング等もしてきた。
哲学の定義とは何か?と問われたときに、私は「普遍的な真理を追究する学問」と答えるだろう。ただ、哲学をどう活用するのか?と問われたときは、「自分の人生における、自分にとっての普遍的な真理を追究・解釈することで、自分の人生を少しでも納得するために活用する。」と答える。どんなすごい学問や理論も活用できなければただの「絵にかいた餅」と一緒である。
「哲学は考える事じゃない。真理を追究する学問だ」と、大学1年生の時の講師に言われた言葉に、少し感動していたのは覚えている。しかし、哲学や宗教学、社会学などの講義を受けて、知識は深まるのだが、今思ば、自分の人生にその学問がどのように役に立つのか?はどの講師も教えてくれなかった気がする。言い換えれば、学問は問いを学ぶだけであり、学問を人生に役立てることは、自分自身で学ばないといけないものだと思う。
若い頃は、「哲学とは何か?」という事に関してのみ追及していた気がする。しかし、「哲学をどう活用するか?」は考えていなかった。哲学とは何か?よりも、哲学はどう活用するか?の方が重要だと思う。それは、哲学に限らず、どの学問でも同じである。学んだことを活かせなければ、学んだ知識は「頭の中のコレクション」にすぎない。
歴代の哲学者たちは、何故哲学を学び磨き上げてきたのか?
「簡単すぎる人生に生きる価値はない」・・・ソクラテス
「勇気とは、恐れるべきものと恐れなくていいものを区別する知恵である」・・・プラトン
「豊かな人間とは、自信が富であるような人間であって、富を持つ人間のことではない」・・・カールマルクス
「人生における最大の危険は、リスクをおかさないことである」・・・キルケゴール
「われ思う故にわれあり」・・・デカルト
数学的や科学的な計算で出来る真理だけでは人生に納得できず、自分自身における人生の真理を追究することにより、様々な考慮材料から答えを作り出し、少しでも納得できる人生を構築できるように、先達の哲学者たちは哲学をブラッシュアップしてきた気がする。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、衣食住、貨幣等の外因的動機だけを満たしても、人生に満足できない人がいて哲学が発展したと考えている。古代ギリシャの偉大な哲学は、奴隷制度の上で成り立ってきた面もあるからだ。
人類がすべて、常に生物として生きる為だけに苦労していたら、哲学は発展しなかったかもしれない。しかし、ただ生きている事だけでは人生に納得できない人間がいたため、哲学が必要となった。自分の人生を納得するために。
哲学に限らず、また学問のみに限らず、自分の人生は納得してい生きたいと思うのは、人間の人生における真理である。私自身は愚者であるが、流転する万物の中で、少しでも自分の人生に納得できる真理を見つけたい。それが哲学の醍醐味である。私の下らない人生も、納得できる人生であれば、少しは面白くなると思う。