「この素晴らしい世界では、遊ぶということほど分別のある事は出来ません。私は人生全体が一つの遊びのように思えます。」・・・ヘンリック・イプセン
我々の人種は言わずもがなであるが「ホモ・サピエンス」である。直訳すると「賢い人間」みたいな意味になる。そして、「ホモ・ルーデンス」とは、直訳すると「遊戯する人間」みたいな意味になり、言い換えると「遊ぶ人」となる。
「ホモ・ルーデンス」とは、オランダの文学史学者である「ホイジンガ」という方が提唱した概念である。基本的には遊戯は文化の中から生まれてきたものであり、文化の方が遊戯より上位であるという考え方が一般的であるが、ホイジンガは「文化は遊戯の中に遊戯として発達する」というような概念を主張した。
先日、中学生の娘の吹奏楽のコンサートに行ってきた。まあ、私は楽器運搬等の手伝いをしており、舞台袖からしか見れなかったが、久しぶりに音楽が人に与える感動という者を味わった。もちろん、自分の娘が演奏しているという感情的なスパイスがあったが・・・
そこで、私は人間は「ホモ・ルーデンス」という側面も否めないということを感じた。芸術は音楽や絵画等だけにはとどまらない。例えば綺麗な数式も芸術になり得るし、文学も芸術になりうる。料理も芸術になり得るし、武道やスポーツだって芸術になりうる。
「芸術は遊びから始まり、研ぎ澄まされて進化した人間特有のもの」といっても過言ではない。
人間に限らず生物全般は「生きる・子孫を残す」為に個々の進化を遂げていると仮定できる。以前も記載したが「ホモ・サピエンス」は約7万年前に「認知革命」が起こり、「虚構の共有」ができるようになる。その結果、「千・万」という単位の人数の団結力を可能にした。
その後、約1万年前に「農業革命」が起こり、小麦の奴隷になった代わりに「子孫繁栄」の力を伸ばした。そして約500年前の「産業革命」により、現在のように便利な世界を手に入れるまでに至った。
しかし、「遊戯」に関しても「革命」とまでいかなくてもずいぶん進化しているのも事実である。「遊戯」自体は「生きるため・子孫繁栄のため」には直接的には必要ない気がする。それでも、人間は進化させてきた。
「哲学」についても同じようなことが言える側面がある。哲学の父と呼ばれるソクラテスは、様々な人間との対話に重きを置いて、弁論闘争を行っていたと言われている。しかし、仕事もせずそんなことをしているソクラテスに、妻であるクサンテッペはよく怒っていたらしい。
「良妻を持たば幸福者になる。悪妻を持てば哲学者になる」・・・ソクラテス
少し話が逸れたが、「善く生きる」為に哲学は必要な学問である。しかし、「生きる」為に必要な学問ではない。むしろ、学問自体が「生きる」為に役立つものもあるがほとんどは、「興味のある個人が生きやすくなる」為にあると思う。
そう考えていくと、芸術も学問もそれぞれの個人的な「興味」から成り立っている面が大きい。そして、その興味を言い換えれば「遊戯」といっても差し支えない気がする。何故なら「生きる」という目的だけのことではないからだ。そして、その様々な「遊戯」からなる芸術や学問に人生や命を懸けてきた故人が大勢いる。
そして、芸術や学問は「文化」と成り得ることから、人間の本質の1つの側面は「ホモ・ルーデンス」といっても過言ではない。
ただ、何故私が本質の1つという表現をするのかというと、「本質は複合的な可能性がある」と考えているからである。
例えば、文化の本質が「遊戯」である「音楽」や「絵画」という側面もあれば、人間の独自文化である「法律」は「生きるため」という側面もあるからだ。そして、「鶏が先か卵が先か?」みたいな議論になるかもしれないが、私自身は「遊戯(遊び)」が様々な文化を作ってきたのではないかと思う。もちろん全部がそうではないとも思う。
「ただ単に生きる」ということを拒んだ生物が人間である。だからこそ人間の本質を「遊戯」と捉え、「ホモ・ルーデンス」という考え方も取り入れられて方が、何となくだが、人生が面白くなる気がする。