哲学ブログ

ラベリング・スティグマ~人工的差別~

「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルをはることによって、逸脱を生み出すのである」・・・ハワード・ベッカー


 ラベリング理論とは、周囲がその対象の人、あるいは集団に対してラベリング(レッテルを貼る)ことで、その対象の人や、集団が「社会等から逸脱した行為」をしてまうという理論である。


 例えば、学校で、ある1人の態度の悪い生徒を先生や他の生徒が「不良」というレッテルを貼ると、周囲がその1人の生徒を「不良」という認識で接する。その生徒が、態度が良いときも、周囲は「不良」というレッテルを貼っている為、あまり関わらないようにする。そうすると、ますますその生徒は周囲からの扱いがひどく感じ、粗暴行為が出たり、不登校になる。


 周囲が、その生徒を「不良」と、ラベリングすることで、その生徒は「本当に不良」になる、または「不良にならざる負えなかった」という事に繋がることである。よく犯罪者を例に挙げたりするが、本人の意思より、周囲のラベリングにより、本人がそのレッテル通りになるという理論である。


 スティグマは、ラベリングに近いが、「不名誉、劣勢、汚れ、不完全」等の負のレッテルを周囲が貼る行為そのものである。元々、ギリシャ語で、奴隷に付与する「烙印」という意味であり、文字通り「烙印」を周囲に受けた人間は、差別され生きにくくなる。


 例えば、ある人が精神疾患を持ち、「統合失調症」の既往があるとする。精神疾患を持っているというだけの事実に、周囲が「精神疾患」=「危ない人、何をするか分からない人」等の印象の「烙印」がその人に押されると、雇用がなくなったり、友人が出来なかったり、周りから差別されるようなことである。ハンセン病や白血病等がよく例に上がる。現在ではコロナ感染者も同様である。


 ラベリングもスティグマも同じで様ではあるが、似て非なるところはある。しかし、どちらも社会的に存在し、私たちの身近なところでもよくあることである。私自身も両方経験がある。

   

 この現象は、人間的な本能に起因するのではないかと思う。何故なら、人間的な本能に、「差別心」があるからだと私は考えている。そして、人間は世界的な歴史から考えても、どの世界でも身分があり、区別ではなく差別をしてきた。


 人間のみに限らずかもしれないが、日本に限らず「世界的」にあったことは、人間の共通であり、共通するという事は、ある種の「本能」と解釈できるからだ。日本でも、明治時代に「四民(士農工商)平等」の思想が始まるが、私の祖父母の時代まで「穢多(えた)・非人(ひにん)」の身分の人は、差別されてきた。また、祖父母の時代まで、「士族・平民」という身分も存在していた。


 ただ、人間的な本能とは、言い換えれば人工的な本能であり、人工的なものは、教育や学びによって、変えられるものである。ラベリングもスティグマも、そのレッテルや烙印を貼る前に、「批判的」に考える必要がある。


 上記の例で言えば、「周囲が不良と判断しているが正しいか?」、「統合失調症はすべて危ない人なのか?」等と、疑いを持つことで、その相手に対する解釈が自分の意思決定によるものに変わるからである。ラベリングやスティグマもある意味、以前記載したプロパカンダに近い効果に起因していると思う。要するに、「あまり根拠のない思い込み」により、「差別心」が創られるという事だ。


 人は思い込むと、その「思い込み」自体を目的とする。例えば、「この人嫌い」と思うと、「嫌う」ことを目的として、その人の良いところは見えず、嫌いなところばかり見ようとする。「この人は駄目だ」と周囲が判断し自分で考えず賛同すると、その人の「駄目」なところにしか目がいかなくなる。


 逆に、「この人が好き」と思うと、「好き」という目的で、好きなことを探す。だからこそ、生活力のない異性でも結婚をする人がいる。人間は「思い込む」と分析をしなくなる。偏見やそれに伴う差別は、感情が自分の中での理論を動かすからだ。しかし、逆に理論から感情を制御できれば、然程これらの現象は改善されると思う。

 私自身は、ラベリングやスティグマ自体が悪いとは思わない。それらは、ただの事象であり、事象自体に良くも悪くもなく、また、人間は必ず他人に対して良くも悪くも印象付けてしまう生き物だからだ。


 どのような人間が好きで嫌いかは、個人の自由である。また、他人を見上げるも見下すも個人の自由である。しかし、ラベリングやスティグマを、あまり考えもせず、他人に当て嵌めたとしたら、それはその他人を個人が評価することではなく、ただ侮辱・差別する以外の何物でもない。それの様な事は、私は批判ではなく否定する。理論的にも感情的にも、よくない事であり、つまらないものである。


 稀にでも、自分が嫌いな人や集団、人種(いろいろな意味で)等を、自分なりに「批判的」に考え、ラベリングやスティグマを思い込みでなく、分析出来れば、少しでも対人関係に視野が広がる。それは下らなくも面白い人生を歩める1つの考慮材料になると思う。

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