「朝に道を聞かば、夕べに死せるも可なり。」・・・孔子(論語)
「知恵能は 身に付きなれど荷にならず 人は重んじ恥ずるものなり。」島津日新公(いろは歌)
どちらも何回か以前紹介した言葉である。「朝に道を聞かば、夕べに死せるも可なり」は四字熟語で「朝聞夕死(ちょうぶんせきし)」といい、「朝に学問(真理)を学べば、夕方には自分は変わるため、学問を学ぶ前の自分は死んでいる(いなくなっている)。」という解釈を私はしている。
もちろん直訳すると違うが・・・
「知恵能は 身に付きなれど荷にならず 人は重んじ恥ずるものなり。」という言葉は、「知識や能力はどれだけ身に付いても、荷物にはならない。それどころか、知識や能力が多い人を見ると、他人はその人を重んじ、自分のことを恥ずかしく思うものである。」という解釈である。
しかし、最近私は「知恵能も荷になるもの」と考えてしまう。そして、「学んだ!」と言い切れるようになるには、どこまでの領域までその事象を自分自身に落とし込むことが必要なのか?等とも考えてしまう。
「学ぶ」ということの絶対条件は「変化」だと、私は考えている。新しい料理を学ぶ場合、その料理が作れるようになる事や、その料理が作れない事を知り諦めるか等の、変化がある。ただ、レシピ本を見て「へぇ~」と思っているだけでは変化はない。
また、個人個人の個性も「学」から成り立っていくものである。個性は突発的な想像力やカリスマ性という物ではない。「個人個人の性質」であるから、誰もが必ず持っているものである。ただ、その個性を他人に認められるためには、「学」が必要である。
もちろん、学校で習った「5教科」等の類だけではない。というより、5教科を学んだことで自分に変化がなかったとしたら、それは「学」ではなく、ただの「知」である。「知」を「学」まで昇華しないと、「変化」は訪れない。言い換えれば、「知識」を自分の糧にできなければ「学んだ」とは言えない。
「論語読みの論語知らず」という言葉がある。
これは、論語を読み知識を学び周知したとしても、「自分が論語で学んだように実践していない」ということである。こうなると、知識はただのお荷物になり他人にひけらかして嫌われることにより、むしろない方が良い知識となってしまう可能性がある。
15世紀の中国明の儒学者である王陽明という人物が「知行合一」という言葉を唱えていた。これは「知識」と「行為」は一体であるという考えであり、「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始まりであり、行為は知ることの完成である)」と言われている。
行動を伴わない「知」は、まだ未完成であるということである。言い換えれば、知識のみ得たとしても行動に移せなければ「学んだ」とは言えないということである。
そして、「知識」を行動に移すことで「学ぶ」事となり、初めて学んだことから「わかる」ということに繋がるのである。「わかる」を言い換えると「身につく」ということでもある。もちろん、行動に移して失敗することもある。しかし、それも含めて「学ぶ」ということである。
感覚的なことではあるが、行動に移すことができる人は意外に少ない気がする。基本的に人間は自分の環境の変化を嫌がるものであると仮定すれば、行動に移すことができないのは分かる気がするが、そうでないようにも思う。
それは、「知識を得ることで学んだ気になり、わかったと思ってしまう。」という現象が起こっているからではないだろうか?と私自身は考えてしまう。あくまでも、「知識」はまだ学ぶための「素材」なのであり、そのことを理解できてないが故の現象である。
「そこから生まれるもののなき博学は下らない。知識のコレクションに過ぎない。」・・・「読んだだけ、聞いただけがただ残っていくという物知りがいる。これは知恵という物にはならない。」・・・志賀直哉
私自身も、「本当に学べたのか?」「行動に中々移せない」「分かったつもりになっているだけなのではないか?」等と悩むことがある。なので「知識」という素材を「学ぶ」ということまで昇華できていない事も多い。
ただ、知識のみで満足する人生より、行動に移し学んでいく人生の方が面白いと私は思う。