「われわれは人生において、しばしば、さまざまな姿に変装した自分の分身と出会う」・・・カール・グスタフ・ユング
ペルソナはラテン語で「persona(仮面)」を意味する。英語で「person(人)」の語源になった言葉でもある。心理学の三代巨匠の一人であるユングが提唱した概念である。「自己の外面的側面」を指す。
簡単に言えば「そとづら」である。人間は社会的動物であり、それがどういうことかと言うと、自分一人で生きているわけではない為、様々なコミュニティを必要とする。そのコミュニティの中でコミュニティの数ほど自分自身の「役割」があり、その分だけ、「外面」が必要となり、その「外面」が「ペルソナ(仮面)」という概念になる。
「学校」・「職場」・「家庭」等で、意識的にも、無意識的にも、人間はその場に適応する為、「自分の内面」を使い分ける。細かく言えば「コミュニケーションをとる、対人」によっても、「自分の内面」を使い分けている。
言い換えれば、その場その場、その人その人によって、自分の「役割」を意識的にも、無意識的にも使い分けている。「学校」という場であれば「生徒」若しくは「先生」という役割、「職場」であれば、「営業、経理、課長、部長」等のそれぞれの役職や職種による役割、家庭であれば「父親、母親、姉や妹」の役割、そして細かく言えば「Aさん・Bさん・Cさん等」のコミュニケーション対応をそれぞれ分けて対応する役割を「自己演出」によって使い分けている。
「自己演出」≒「外面」≒「役割」≒「仮面」≒「ペルソナ」という解釈を私はしている。狭義と広義で少し議論内容は変わっては来るが、狭義的なことで議論をしたい。
この「ペルソナ」を考えた時に、まず私が思う疑問は「仮面をかぶっていない自分とは誰か?」、言い方を変えると「役割がない自分とは?」という事である。「外面」の対義語は「内面」あり、「外面」≒「ペルソナ」であれば、「内面」≒「素の自分」という事であるのは文字的に分かるのである。
しかし、そもそも、場や状況において使い分ける「ペルソナ」を選んで使うのは個人個人であり、「素の自分」が選んで「ペルソナ」を使っていると仮定するなら、「ペルソナ」≒「内面」ともなりえるのではないかと思う。「役割」や「外面」、「仮面」の種類を「自己設定」して選び「自己演出」をしているのは「内面」であるからだ。
よく「あの人は裏表がある」という言葉を耳にするが、人間は「裏表」で済むだけの簡単な生物ではない。人間の心理を図形で例えるなら、「多面体」である。それは個人個人の面の多さや少なさが異なり、個人個人の「面」の分だけ「ペルソナ」が存在すると言える。そして、人生を下らなくする「ペルソナ」は、「他」によってつくられた、言い換えれば「自分以外の存在が、自分に仮面をつけた」と思う思考、「仮面をつけさせられている」という「自己解釈」である。
また、私自身はどの自分も「ペルソナ」を持っていると考えている。私という概念、言い換えれば「素の自分」でさえ、「自分という仮面」、「自分という役割」がまずあると考えている。これは「動物的な人間」ではなく、「人工的な人間」、言い換えれば「自分という概念はまず意識の産物である」という事に起因しており、「ペルソナ」自体も「自分で創っていく産物」と考えている。
「大人(おとな)な、大人というペルソナ(仮面)を被っている」、それは子供から大人に成るという事は、自然(子供)から人工(大人)になるということである。仮面は人工の産物だからだ。ただ、人工の産物は言うまでもなく「人」によって創られる。
その「ペルソナ」を創る人が「他人」ではなく「自分」である方が、自分が納得いく人生を「自己演出」出来ると、私は考えている。