「職業に貴賤なし」・・・石田梅岩
「貴賤」とは、簡単に言えば「貴い・賤しい」という意味である。私は職業に貴賤はないと思っている。どの職業が貴く、その職業が賤しいとか思はない。もちろん、稼げる・稼げないは現実としてあるのは分かるし、職業に対して偏見があるも分かる。
しかし、稼げるから貴い、稼げないから賤しい、というわけではない。なぜなら職業は必要だから存在しているからである。言い換えれば「需要があるから成り立つ」という事だ。風俗等も必要とする人がいるから成り立つ。
「存在するものは合理的である」・・・ヘーゲル
この言葉は人間世界、言い換えれば人がつくった人工的世界では「真理」の一つである。この言葉を簡単に解釈すると、「存在するものは必要だから存在する」という事だ。職業も一緒で、誰かが必要とするから存在する。故に貴い・賤しいという概念は私はないと考えている。
偏見は個人個人の感じ方なのでしょうがない面もあるが、職業で人を判断する人自体に私は偏見を持つ。まあ確かに、その仕事についているその人の心理的なものを考えたくなるのは分からなくはないが・・・、偏見は区別じゃなく差別であり、私は差別する人は差別されてもしょうがないと思っている
まあ、人間は差別する生き物なのだが・・・ただ、職種の中のヒエラルキー概念が貴賤を生んでるのがよくないと思う。また、同じ職業であれば貴賤はあると思う。ちなみに、ヒエラルキーとはピラミッド型の段階的組織構造のことを意味する。士農工商やカースト制度がいい例である。
例えば、職種の中のヒエラルキーとは、病院や施設では、介護職員の上に看護師がいて、その上に医師がいるという感じである。しかし、本来はどの職種が欠けてもその組織は成り立たない。そして、似て非なるところもあるが、専門分野が違いう。
勿論、給料に格差はある。社会的には専門性や希少価値的なところで給料が決まるからだ。ただ、「給料の高い低い」と「貴いと賤しい」は違う。また、法律などが絡むので厄介な面はあるが、「給料が高い職業=役に立っている」とは限らない。医師より介護士がお客様のためになっていることもある。
私の働いている施設は「老人保健施設」であるが、お客様を支えるために「介護支援専門員」「介護士」「看護師」「医師」「栄養士」「調理師」「事務員」「理学・作業療法士」「言語聴覚士」「社会福祉士」「掃除や環境設定する人」「運転手」などの職種が存在する。どの職種がかけてもお客様の生活の質は守れないのだ。
言い換えれば、どの職種も必要とされており、必然的に人を支えるためには必要な存在だという事である。
ただ、同じ職業の中では「貴賤」は存在する。
「国を正しく変えたいという貴い政治家」もいれば、「金儲けのみに固執する政治家」もいる。「お客様の生活のために献身に尽くす介護士」もいれば、「虐待する介護士」もいる。
「美味しいものを作り、人に満足してもらいたいという調理師」もいれば、「料理は作ればいいというだけの調理師」もいる。「その人の為を想いながら相談を受ける社会福祉士」もいれば、「その人をお金としてしか見ない社会福祉士」もいる。
お金を稼ぐために仕事をすることを否定しているわけではない。職業はお金を稼ぐ為がまず第1である。そこは事実であり真理だ。しかし、同じ仕事をするのであれば、その中でも「貴い」と「賤しい」どちらが良いかというと、私は「貴い」方がいい。
何故なら、お金を稼ぐだけで仕事をするのは苦痛だからだ。もちろん「お金のため」に割り切るところは多々ある。ただ、同じお金を稼ぐなら、人に喜ばれて稼げる、言い換えれば人の役に立って稼げる方が私の精神を安定させる。しかし、そこはもしかしたら私の「賤しい」ところかもしれない。
ただ、「貨幣制度のしもべ」の様に賤しいよりも「誰かの役に立つ(ある意味消費者の奴隷かもしれない)」の様に貴いが善い。そして、同じ職業をするなら「賤しい」よりも「貴い」方が人生が面白くなると思う気がする。