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ACP(Advance care planning)~選択意志の根源~

「人生は選択の連続である」・・・ウィリアム・シェイクスピア

 「自分にとって最も重要な価値観について考えるには、自分自身の葬儀に出席したところを想像するといい。」・・・スティーブン・R・コヴィー

 ACP・・・何年か前から介護の世界で耳にするようになり、昨今では非常に重要な取り組みと言うか、支援と言うか、方法のような位置づけになっています。Advance care planningの略でACPです。直訳すると「介護計画の促進」みたいな意味になります・・・多分(-_-;)。

 4年くらい前だと思いますが、その時に習ったことでACPをざっくり説明すると・・・「認知症等で自己意思選択ができなくなった時のために、理解力のある元気なうちに、自分に介護が必要になった時にどうして欲しいか?の計画。」のような事です。私はこの考えに批判的な面がありました。

 このACPは判断力がある時の方が「正しい」という前提で計画を立てるという事です。これはある意味、「同じ本人であっても認知症になったり、心原性脳梗塞等の疾患で意思表明ができなくなったりする前の元気な時の意思決定の方が重要だ」と言う考えが前提という事です。

 例えば、健常者に「食事が食べれなくなったら胃瘻(胃に直接栄養を入れること)を希望しますか?」と聞いたら、ほぼ「希望しない」と言います。健常者に「自分が死にそうになったら延命治療を希望しますか?」と聞いたら、ほぼ「希望しない」と言います。ある種失礼な例えですが極端な話、健常者に「認知症になる前には死にたいですか?」と聞いたら、おそらく殆どの人が「死にたい」と答えると思います。

 しかし、認知症になったり心原性脳梗塞等の疾患で意思表明ができなくなったりした後の意志が、健常者の頃の時の意見とは違う可能性は大いにあります、食事が食べれなくなった時に「まだ生きたい」と思っているかもしれません。認知症になってから「死にたくない」と常に訴える人もいるかもしれません。寝たきりになってももしかしたら「生きているだけでありがたい」と思う人もいるかもしれません。

 健常者であった時期の意志が意志表明できなくなったときの「意志の代弁」となるのは、「些かどうか?」と言う疑問が常にあったため、私はACPに対して批判的なところがあったというわけです。

 しかし、ある医師の言葉を聞いて考え方が少し変わりました。

 「意思形成」という物の考え方です。

 人間は「○○したい」というその意志はある意味、自分の積み重ねてきた人工的な人生により左右されます。「お腹がすいたから食べたい。」や「眠たいから寝る」等の生物的本能は別です。

 例えば、「家で暮らしたい」と思っている事と「家族に迷惑はかけたくない」と同時に思っている人がるとします。もしこの人が何かしらの疾患を持ち介護が必要になった時に「家にいたい」と最初は言うかもしれません。しかし、自分を介護する家族をみて「施設にはいりたい」と言った時に、どっちが本当?となります。

 「家で暮らしたい」という意思決定は「家族に迷惑をかけたくない」と言う根本思想により「施設にはいりたい」と意思決定が変わるという事です。意思決定は揺らぎますが、意思形成は選択の根源になりますので基本的には揺らぎません。もし、意思疎通や決定ができなくなってしまった時に、その人の意思形成の根本を知っている人がいたら、その人の意思決定を代弁できるんじゃないか?と思いました。

 その個人個人が「何故、そういうことを望むのか?」を根本から理解できることができるのであれば、認知症で意思決定ができなくても、心原性脳梗塞等の疾患で意思表明ができなくなったりしても、その人の自律的意思をくみ取れるかもしれないと思います。それは、言い換えれば、「選択意志の根源」を知るという事です。

 そして、上記のシェイクスピアの名言のように「人生は選択の連続」であり、「選択の連続の積み重ね」が人生の歴史になります。そこには色々な個人個人のドラマがあります。「その人らしさ」という、アイデンティティーはそれらにより形成されるものなのかもしれません。

 時折でも、自分の家族や友人、恋人等の「選択の根源」を考えることで、下らない人生も少しは深みのある面白い人生になるのかもしれない・・・なんて、ACPの話を聞いて、考えさせられました(^_^;)

 

 

 

 

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