「『おかげさま』っていう神様。あなたが着ている服、履いている靴、これは全部"おかげさま"がつくってくれたものなの。会ったことがはなくても、あなたのことを思って一生懸命つくってくれた目に見えない人たちがいるの。その"おかげさま"の存在を忘れたらダメだよ。そしてね、いつかあなたが誰かの"おかげさま"になるの。」・・・永松たつみ
「喜ばれる人になりなさい」という永松茂久氏が書いた本の最初の方に出てくる分である。この本は永松茂久氏とその家族・母親等との回想本であるが、人間の真理を突いている本であると感じた。
『神様を信じるか?』
この問いに関して、「神様はいない存在である!」と言う様な回答を殆どの日本人がするだろう。もしくは好きな芸能人を上げるかもしれない。それはそれでいいと思う。
しかし、人間は神を信じていなくても必ず「祈ってしまう生き物」である。本能的に加えて言語的にも。祈ってしまうということは「無意識に神を信じている」ということでもある気がする。ある意味「神を信じる」ということは、人間の本能なのかもしれない。
また、人間は「虚構の共有」という能力により、神という存在を事実というより解釈という能力により共有することができる。「神がいる」と信じれば、その人に神という存在があり、しかもその神を他の人とも共有できる。
ただ、「神の定義」もしくは「神という存在の解釈」は十人十色である。私自身は神は自分の中にいる存在と思っている。
「仏神 他にましまさず 人よりも 己に恥じよ 天地よく知る」・・・島津日新公
私の生まれ育った南さつま市加世田というところで有名な「いろは歌」の中の歌である。訳すと「仏や神様は他にいるわけではなく自分の中にいるのだ。だからこそ悪いこと等したら、まず自分のことを恥ずかしいと自分で思え。天地(世間)は見ているものである」みたいな感じである。私自身の解釈を交えているので、そこは悪しからず・・・
古来より人は自然を恐れたが自然に感謝して生きてきた。宗教に節操のないと言われている日本も例外ではない。特に日本は自然を崇拝するアニミズムが強く、自然に感謝する文化は今でも残っている。代表的な言葉は「いただきます」と「ご馳走様」である。
「いただきます」は、自然の命を頂く事で生きながらえることができるということに対しての感謝の言葉であり、そんな大事な命を頂いた代わりに「ご馳走様」という感謝の言葉で表現する。
まあ、現在ではその感謝の言葉は料理をつくった人の配慮という形式の方が大きいと思うが、もとは神様に感謝する言葉と言っても過言ではない。
そして、「何故人間が神を必要とするのか?」と考えた時に、根本的なところは不安の浄化やストレス緩和というところに行きつくのではないかと思う。
「信じる者は救われる(ユダヤ人でなくとも)」・・・イエス・キリスト
人間、自分のことであれ家族であれ、友人であれ神であれ、自分の中で確信を持ち何かを信じて生きている時には不安はなくなる。また。ストレスも緩和される。何故なら「信じる者のために生きている。」という自信が持てるからだ。
言い換えれば「生きる理由を見出している状態」と言っても差し支えない。
しかし、現在はどんだけ科学が進歩しようと「ストレス社会」であり、おそらくこの現象は変わらない気がする。それは何故か・・・?
「神様という存在がいなくなり、感謝することが少なくなってきたから」
と私自身は考えている。「感謝はストレスを無くす最大の術である!」と私自身は考えている。「隣人を愛せよ」というイエスキリストの言葉は、そうすることでストレスがなくなり、平和に暮らせると確信していたから出た言葉であり、効果があるからこそ今でも使われている。
そこで、冒頭に記載した「おかげさま」という神様の存在である。「おかげさま」と思えることは、「自分の環境に感謝」することであり、不安やストレスも減らしてくれる神様である。
仏教では「諸行無常」や「色即是空」等の言葉があり、「無」というのが本質と言われる。これは、世の中すべてのものが変化しないものはなく、実態の本質とは普遍的なものはなく「無」であると言う様な事である(私の解釈であるが・・・)。
しかし、それだけではなく、「諸行無常」や「色即是空」の現象が何もないと言う訳ではない。何かしらの「縁」によって様々なことが現に起こっているという考え方をする。
実体としての「個」は存在しないが、その中でおこっている出来事があるのは否めない。その原因はすべてのものに「縁」があり、すべてのものに「縁」があるということはすべてのことが繋がっているということになる。
すべのことが「縁」によって繋がっており、さまざまな事象が起こっていると解釈できるなら、もとの原因は「縁」ということであり、原因は結局「縁という一つの事象」ということになることから、この縁のことを「一如」と呼ぶそうである。
「如」とはありのままのことを指す。
「おかげさま」という神様は、まさしく「縁」から始まる神様である。「袖振り合うも他生の縁」という言葉があるが、袖を振り合わなくても私たちは様々な人とのつながりで、人生が成り立っていると言っても過言ではない。
そう・・・自分の人生が成り立つのは「顔も知らない人も含む縁」によって成り立っていると言っても過言ではないということであり、「おかげさま」という神様の存在に気付くことができる方が、より良い人生になると私自身は考えている。
人生というのは下らないものかもしれないが、「縁」を大事にし、様々なことに「おかげさま」と思えることで、大分人生の面白さが変わってくるのではないだろうか・・・