哲学ブログ

諦める時間~心の余裕~

自分に自分に目をつぶることも大事・・・所ジョージ

 以前、諦めるの語源は「明らかに見る」と言う記事を載せた記憶がある。諦めないのが美徳と言う日本人ならではなのかは分からないが、ある種のパラダイムがある気がする。

 確かに諦めないことは大事である。しかし、すべてを諦めないことは無理なことであり、また無理なことを諦めないのも無理であり苦しいだけである。人生には諦めたらいけない場面もあれば、諦めないといけない場面もある。

 ただ・・・諦めるのであれば、語源通り「明らかに見て」それが諦めなければいけないのが明らかなのかを判断してからをお勧めする。何故なら、簡単に諦めると諦める癖がついてしまうからだ。

 しかし、ある意味「諦める週間」と言うのも大事な気がする。それが諦める時間である。

 「今日、誰のために生きる」(SHOGEN・ひすいこうたろう作)という本の中でブンジュ村というアフリカの小さな村の話である。このブンジュ村は電気が使えるのは1日3時間~4時間であり、この村の人は15時30分で必ず仕事を終えて、夜寝る21時までは自分の時間や家族との時間を大事にするとのことである。

 この村に人達は自分の仕事に対して誇りを持ち、みんな自分の仕事を愛しているそうであるが、残業という考えはなく、15時30分以降に仕事をすることは自分や家族との時間を削ってしまうことになり、それは「恥ずかしいこと」と思っているらしい。

 自分の仕事を愛し、誇りを持っていても、「仕事以上に大事なこと」を彼ら・彼女らは知っているのだ。

 「私たちは生きるために仕事をしているが、仕事をするために生きているのではない。」と私は考えているが、残業が当たり前で仕事を家に持ち帰ることもよくある。そんな私からすると、ブンジュ村の考えは耳が痛いものである。

 人間は電気を発明し、現代では1日中明るい世界を実現することに成功した。言い換えれば「夜に勝った」とも言える。しかし、ここで不具合が生じるのである。

 人間自体は自然そのものの生き物であり、朝起きて夜寝るという生活を何十万年(考え方によっては約3百万年)してきた。なので人間はその通りにしないと、体調を崩すことや自律神経が乱れる等の不具合を生じるようにできている。

 また、パソコンやスマートフォン等の普及により、24時間誰とでも連絡が取れ、職種によっては24時間いつでも働ける環境を手に入れた。そのことにより、「そのおかげで」・・・というようなこともあれば「そのせいで」・・・というようなこともある。

 「そのせいで」ということの代表的なのが「諦める時間の損失」である

 電気があるおかげで夜も明るく暮らせられるが、夜更かしができる環境ができたともいえる。パソコンやスマートフォンのおかげで、自宅でも仕事ができるし24時間誰とでも連絡が取れるが、家でも仕事をしないといけないと思ってしまったり、24時間連絡を受けないといけなくなったともいえる。

 もちろん科学に進歩の批判をしているわけではない。問題は、現代の日本人(日本人に限らずだが)は、諦める時間が分からなくなっている人が(私を含めて)多いのではないかと、感じるのである。言い換えれば完璧なプライベート時間が何時からか分からなくなっている状況である。

 言わずもがなであるが、人生はもちろん有限であり自分の使える時間も有限である。もちろん仕事もプライベートも同一問考えて「諦める時間」がなくても幸福な人もいると思う・・・が、たいていの人は「諦める時間」が必要なのではないかと感じる。

 何故なら、心に余裕がない人が多き気がするからだ。

 以前「心の残業」という記事を書いた記憶もあるが、自分の時間も仕事に支配されている人が心に余裕を持てるとは思えない。何故なら人間の脳は同時に2つのことを考えることはできず、仕事のことを考えている間は、自分や家族のための思考が止まるからである。

 この時間からは、仕事はあきらめて自分自身のために使う時間にしようと考えられるのであれば、それは心に余裕を持つ一つの習慣となり、人生を楽しむ一つのコツであるような気がするのである。

  • この記事を書いた人

yu-sinkai

-哲学ブログ