哲学ブログ

大人~人工期~

「子供は感情でしか大人を支配できない。大人になってからも感情を使って人を動かそうとするのは幼稚である。」・・・アルフレッド・アドラー

「大人になるという事は、曖昧さを受け入れる能力を持つということ。」・・・ジークムント・フロイト

 子供が大人になる準備期間的なものを、モラトリアムともいう。大人という定義は、十分に成長した人のことを指すらしい。それは、肉体的にも精神的にも成長してこそ大人という意味である。中々難しいことのようでもある。身体的な面で言えば簡単な気がするが、精神的な面で考えると難しくなる。

 奈良時代くらいは12歳から16歳の男子は元服という儀式を迎え、成人となった。女性も同じよう年齢で成人となる。現代では20歳から成人となり、近々選挙権等の兼ね合いもあり18歳から成人となる。大人と成人、似て非なるところはあるが、成長した人という意味では同義語である。

 しかし、身体的に成長したが、精神的に成長を感じられない人は、大人でも周りからは子供っぽいと思われる。逆に精神的に成熟している子供は大人っぽいと思われる。この境目は何なのか?と考えた時に、私は「子供は自然」「大人は人工」というような一面があるという考え方をしている。

 例えば、子供がピーマンなどの苦い食材が嫌いなのは、生物として苦いものは毒という本能があり、苦いものは基本的に食べない様に人間も生物としてインプットされているらしい。また、子供が甘いものが好きなのも、生物としてカロリーが手っ取り早く沢山取れる甘いものは、都合がいいのである。

 また、赤ちゃんの泣き声は、大人には耳障りに聞こえるようにできている。赤ちゃんの泣き声は親に何かしらアピールして改善を要求することであるので、大人に気付かれやすいように、大人にとっては嫌な音に聞こえるようにできている。人間も含め、生物全般は「生きる」ことを目的として進化してきた。これは自然的な事と言い換えられる。

 子供というのは、自然的な存在なのだ。生物界で備わってきた感情を上手に使うことで生きるのである。誰にも教わっていないが、「苦いものは危ない!」「甘いものはいい!」「泣けば誰か助けてくれる」等の本能に従うのものである。そして、物事を感情でしか捉えられないからこそ、感情のみで動くのである。

 では、大人というものは、子供の自然的な存在から人工的な存在になる事だと私は考えている。例えば「良薬口に苦し」という言葉があるが、大人は経験則から、苦い薬の方が体によいという事を知るのである。好き嫌いは別として、何が良いか?悪いか?を人工的な経験則から学んでいくのである。

 「酸いも甘いも嚙み分ける」という言葉も、大人だからこそできる事である。また、辛い味は子供は苦手である。辛味は味覚ではなく痛覚であるからだ。程よい辛味を楽しめるのは、ある意味程よい痛みの味を楽しめるという事でもある。そして、それらは味覚だけには限らなず、大人だから楽しめるのである。

 Mr.childrenの「HERO」という曲の歌詞の中に、「人生をフルコースで深く味わうための、いくつものスパイスが用意されていて、時には苦かったり渋く思うこともあるだろう・・・」という言葉がある。色恋沙汰も含み、人間関係や様々なことで、辛い事や苦しい事も糧にできるのが大人なのではないかと思う。

 現在では、昔の様に食べるものに困ったり寝るところに困るすることはない。生きるための大変な、辛い事や苦しい事は対人関係の中で生まれることが多い。

「酸いも甘いも、辛いも苦いも人間関係」である。良くも悪くも。その中で、成人として培ってきた時間の中、生まれ持った感情よりも、生きてきた経験則で物事を図るのが大人になるという事だと思う。

 生物として生まれ持ったものを武器とするのが子供で、人工という経験則を武器にするのが大人と言っても良い。

 私自身も大人になれているのかはわからない。ただ、人生のフルコースを味わうために、酸いも甘いも辛いも苦いも楽しめた方が、下らない人生でも面白く生きれる気はする。

小学校の木

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