「科学が問題解決であるなら、文学は問題提起である」・・・中田敦彦
私はエッセイ等の本は多少は読むが、あまり小説等の文学的な本は読まないほうだ。ただ時折読むことがありこの言葉を聞いて、「なるほど!」と思った。なんとなくはそう思ってはいたのだが、その言葉を表現ができなかった。
「人間とは?」と考えた時に、「動物的」・「人間的」・「人工的」の3つのカテゴリーに分けて考えられる。「人間とは?」を科学的に考えた際には、以前ブログに記載したように私たちの直接的な先祖であるホモサピエンスはは約20万年前に誕生した。人類のもとになる先祖は700万年前に誕生したとも言われている。
そして、約7万年前に起こる「認知革命」により、「宗教等(おそらくその当時は)のフィクションを共有する能力」が備わったため、他の人類であるネアンデルタール人等を滅ぼし、ある意味ホモサピエンスが天下統一した。
この話は「ホモサピエンス全史」という本の内容らしいが(私はまだ読んでいないが・・・)、所謂、「現在いる人間・人類とは?」という問題提起ではなく、人間の生物的な謎に関する解決を示している。私たちの祖先が認知革命により人類の中でも勝利し、その結果、通貨制度や法制度等を共有する特徴があるという、ある種の回答を導いたのである。
しかし、「人間とは?」という事を文学から考えると、人間が創りだした社会情勢や社会悪、そうなってしまう要因等が描かれていることが多い(私が好んでそういう作品を読むのかもしれないが・・・)
例えば私が高校生のの時に読んだ「It(イット)と呼ばれた子(児童虐待の話)」は社会に対して、児童虐待が実際行われているという問題提起や「人間失格(私の中では芥川龍之介の遺書)」は家族や社会に適応できない人間がいること等の問題適をしていたと思う。
また日本の歴史ものでいえば「平家物語」は「諸行無常」や「栄枯盛衰」の問題を提起している「レ・ミゼラブル(ああ無常)」は、その当時の貧困や革命を交えて、その時の社会情勢の問題提起をしている。
「ヴェニスの商人」は、おそらく当時は、キリスト教徒目線でユダヤ教の人間が罰を受けるという喜劇であったと思うが、宗教の自由や信仰の自由がある私たちからすると、ユダヤ人に対する悲劇とも捉えられる。時代と共に、問題提起となる例になる作品でもある。
科学や化学は事象で、ある意味普遍的であり、その解釈は事象がそのまま解釈となる。「1+1=2」の様に。しかし人間の世界、いわゆる社会は、どれだけ科学が発展しても問題が生じる。それは個人個人の解釈のひずみによるものでもあるかもしれない。何故なら、社会は人間の集合性から成る結果であり、マジョリティーが普通となる仕組みになっているからだ。
要するに、人間は基本的に満足できない様な仕組みになっているらしい・・・という事である。その為、科学が問題解決しても、文学というか、人間の思考が問題を提起し続けてるようにも感じる。科学で利便になっても、思考は不便を感じるようにできている。「もっと便利になればいいのに・・・」等と。
私たちの高校生時代は「理系」と「文系」に分かれ、所謂「理系脳・文系脳」や「男脳・女脳」等と言われていた。今ではそのようなことは無いという考えの方が主流であり、私もそう考えている。ただ、「問題提起」と「問題解決」の考え方には分かれるのかもしれないとも最近は考えるが、その双方は視点が違うだけであり、繋がっているとも思う。
「問題提起」という命題がなければ、「問題解決」も出来ないからだ。「問題提起」とは「問題解決」したいからこそ存在し得るものであるということである。しかし、科学や化学は新発見はこれからもあるだろうが変化はないのに対し、人間の概念や社会、世論等は常に変化するため、ある意味常に問題を提起していき、問題解決したはずの思想等は未来ではさらに問題提起になるという様な事象が起こりえるのである。
偉大な科学者であるアインシュタインが導き出した「相対性理論」は、修正は今後もあるかもしれないが変わることは無いし、水の元素記号である「H2O」は今後も変わることは無い。しかし、「民主主義」がよいと言われている現代も、未来では「民主主義は問題だ!」となり、「社会主義者」が増えるかもしれない。
そう考えていくと人間の問題提起の歴史を、人間の精神的な側面、その当時の社会的側面、生物や人間としての本能としての側面、歴史的な側面等を学び、考慮していくことは、意外に人生を下らなくも面白くさせる手法なのかもしれない。