「信頼は、齢を重ねた胸の中でゆっくりと育つ植物である。」・・・ウィリアム・ピット
「信用というものは求められ過ぎると種切れになってしまうものです。」・・・ブレヒト
「信頼と信用」・・・同じような言葉であり、現在では混同して使われてはいるが、実は同じ様で同じでない。
「信頼」は、人柄や立ち振る舞い等を見て人を評価し、「信じる」事であるのに対して、「信用」は、人のこれまでの行為や実績等をみて、「信じる」という事である。
信頼は「信じるための保証」がないのに対して、信用は「信じるための保証がある」という事である。ベストセラーになったアドラー心理学の「嫌われる勇気」という本にも、この様な説明がある。
「○○信用金庫」等の金融機関は、そのお客様が「お金を持っている、所得がきちんとある」という保証があるから、信用してお金を貸すのである。信用には、今後も大丈夫という根拠が前提にあるものである。
ローンの仕組みも同じであり、返済能力があるという事が前提で信用してお金を貸すのである。仕事に関しても同じである。
仕事を例に挙げると、職場の同僚をおそらく殆どの人は信頼ではなく信用している。そこには「この人はこのぐらいの仕事ができる」という前提というか、保証があるが故に、物事を頼むからだ。
例えば、新人であれば仕事をミスしてもしょうがないと思えても、ベテランが仕事をミスすると「何で?ダメでしょ!」等と思う。そこにはスキルという保証がある前提で仕事をしているため、そのスキルが思ったよりないと信用できなくなるものである。
新人に対しても、最初は出来ないが、後からできるようになるだろうという予測があるため、企業は最初は役に立たない新人に、人件費を投資するするのである。
信用とは、言い換えれば「信じる」というより、客観的な判断により「期待する」という解釈が正しいのかもしれない。過去の実績や、その人の所得等の価値に対して、今後も保証されるであろうことが前提でるからだ。期待とは「達成してくれる」等の出来ることが前提であるからだ。
だからこそ、その期待を裏切られると「がっかり」等してしまうものである。
信頼は、その信頼できる根拠がないが、そう感じるから信頼するという、保証のないことに対して「信じる」という事である。
今までの行為や成果等のことではなく、自分の直感的なところでその人を評価し信じるという事であり、期待というよりも自分の判断で(主観的に)「信じる」という事でもある。
本当の意味で信頼していれば、その人が自分の期待を裏切った時に、「がっかり」等することはない。ある意味、善い意味で「期待をしない」という事かもしれない。
1概には言えないが、「信用」は物質的な事であり、「信頼」は精神的な事なのか?とも考える。
アドラー心理学では「信用ではなく信頼をしなさい」という教えがある。信用は、期待を裏切られたときに、相手を責めてしまう傾向にあるからだ。
しかし、私は「信用と信頼」、どちらが善いとか悪いとか言っているわけではない。ただ、人を信じる時にどこを基準にすることが大事か?というところに着眼点を置くことが重要であると思う。
ビジネスの世界等の所謂「仕事関係」であれば、ただ信頼しているだけではおそらく成功しない。その人の能力が信用できるから、人を雇ったり、仕事仲間になれたりするからである。無能な人間を信頼しても、損するだけである。
しかし、友達付き合いや異性付き合い、家族関係等の所謂「プライベート」では、信用より信頼できた方が面白く生きれると思う。自分の損得で友人や異性を選ぶのも、悪いとは言えないが、つまらないと思う。
他人は基本的に精神世界まで自分の思い通りにはならない。しかし、信用でプライベートの人間関係を構築すると、自分の思い通りにいかないだけでストレスが溜まってしまうものであるからだ。
人に期待してストレスが溜まるのは、仕事関係だけで十分だとも思う。
そこには「ただ信じる」よりも、根拠があった方がいい時もあれば、自分の直感を信じて自己責任で信じた方がいいこともあり、どちらもメリットやデメリットがあるという事である。
「信頼と信用」・・・言い換えれば「信じることと期待する」事だ。下らない事かもしれないが、人生の中で使い分けて生きていけた方が、わりかし面白い人生を歩めると思うのだが・・・