哲学ブログ

正論は暴論?~理論と感情~

「相手を説得するために、正論など持ち出してはいけない。相手にどの様な利益があるかを話すだけでいい」・・・ベンジャミン・フランクリン

 「正論では革命をおこせない。革命を起こすのは僻論である」・・・西郷隆盛

 正論は時として、非常に暴論になりやすい理論である。何故なら、人間の考えは「人工的」であるが、それに対して人間の感情は「自然的」であるからである。言い換えれば人工的な考えは「ああすればこうなる」という事だが、自然的な感情は「ああすればこうなるとは限らない」ということだ。

 正論とは簡単に言えば1+1=2の様な簡単な数式を状況に合わせて文面で表しているという事である。

 難しいのは人間の「人工」の部分ではない。おそらく人間も他の動物と比べて例外ではなく「自然」の部分が大半を占めているため、正論は暴論になりやすいと私は考えている。簡単に言えば、人間の感情は人工的な理論に基づくわけではなく、自然的な論理に基づくからである。

 「頭では分かっているけど・・・腹が立つ!」みたいなことはよくある。

 人間の自然的な感情は、ある意味、嫉妬や不満、不安等の負の感情が多い。もともと人間は負の感情が先立つようにできていると私自身は考えている。だからこそ、理論的に分かっていても認めたくない!という部分が多い。

 しかも、感情は意外に自分で考えている以上にうまく制御できない。頭で「ああすればこうなる」と考えていても中々上手くいかないものである。

 恋愛脳が分かりやすい例えである。好き嫌いは理論より感情が勝る場合が多い。駄目な異性でも好きになってしまえば、どんな正論も好きになった本人には通らない。

 むしろ、その正論は悪口のように聞こえてしまう。また、好きになってはいけない異性がいたとしても、頭でわかっているが、好きな感情は抑えられない。恋愛脳は以前も記載したが「本能に起因する」らしい。であれば、恋愛に限らず、正論を嫌がるのは人間の自然的な本能なのかもしれない・

 また、感情も脳の作用の1つである。合理的に考えるという脳の作用よりも、色々な感情を持ってしまう脳の作用の方が多いのである。だからこそ、合理的なだけの正論は、感情を理解しないまま使うと暴論となる。

 しかも、正論だけをいう人間は、実は結構感情的で、逆に正論で言われると怒り出す人が多い気もする。自分の感情を正論で考えられないからである。

 ただ、私は正論が悪いと言っているわけでも、人間の感情の方が正しいと言っているわけではない。人を諭すのに正論は必要条件である。しかし、それ以上に必要なことは個人個人の感情を考慮したうえでの理論であるということだ。

 そして、そこに付け加えるならば、自分が正論を聞いた時に、自然的な感情を人工的な理論で抑えることもまた必要な事であると思う。正論は暴論となるが、暴論は正論とはならない。正論を聞く側も、感情をコントロールできれば、正論は正論のままであることもまた1つの真理である。

 正論は理論的には正しく諭すことではあるが、現実的には正しく諭せない場合もある。人生は数学や幾何学で測れるほど浅くはない。また、人間がみんな計算的に正しい事をした結果社会的に不利になることを、経済学で「合成の誤謬」という。

 人間は自分たちが思っている以上に、意外に原始的な存在だと私自身は思っている。「人間の中の人工と自然」が今の私の哲学のテーマなんだとも思う。

 人間、個人個人の感情、様々な人の成り立ち等も踏まえて、ただの数学的もしくは幾何学的な理論的正論ではなく、感情的な事も踏まえ人間の自然的な部分も考慮した論理を考えられることができるようになれば、私の人生は下らないけれども、少しは面白くできるのかもしれない。

正論を言う人のイメージ
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