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許容~迷惑~

「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい」・・・インドの諺(格言)


 私が「迷惑」という事に対しての、最終的な対応思想が上記の言葉である。インドのこの言葉を知ったのはつい最近である。大学生頃だったと思うが、自分の存在が人の迷惑になると考えていた時に、開き直ってこの思想にたどり着いた。


 「自分が生きている価値はない。」と思った時に、おそらくその8割ほどは「人に迷惑をかけるだけだ。」「自分なんて世の中からしたら迷惑な存在だ。」等と思うのではないだろうか?


 私は、自分の存在価値を疑い始めた時に、周りの人が「お前は迷惑な存在だ。」と言っているわけではないのだが、独り相撲で、周りにとって迷惑をかける存在だと思っていた時期がある。その時は「死にたい。」という気持ちではなく、「自分の存在そのものを消したい。」と思っていた。


 ただ、いつからか開き直った時に、「迷惑をかける存在であるならば、人も迷惑を被っても善しとすれば、自分が人にかけた迷惑もチャラになるのではないか。」と思い始めるようになった。自分勝手な都合のいい解釈ではあるが、幾分救われた気分にはなった。


 そもそも生きている以上、人間に限らず生物は他の生物に迷惑をかける存在である。言い換えれば、他の存在に迷惑をかけるのは、生きるためには絶対条件になってしまう。極端な話をすれば、生きるために何かを食べるという事は、生きるために何かを殺すという事である。食べられた(殺された)側からしたら、多大な迷惑である。


 人間に限らずだが、生まれるとき、母親は脳内麻薬(脳内エンドルフィン)が過剰に分泌して、お産の疼痛を抑えるのだが、それでも苦しいおもいをする。言い換えれば、生まれるときは、どんな生物であれ、母親に迷惑をかけるのである。


 極論を述べたが、人間は生きている以上、絶対に誰かに迷惑をかける存在でもある。ただ、その迷惑の許容範囲をどう考えるかで、迷惑で有るか無いかが、自他ともに決まってくるだけでだ。


 私は、自分で自分の存在価値は未だに分からないが、自分が人に迷惑をかけている存在であることは理解している。であれば、人から受ける迷惑を、迷惑となるべく思わず受けいれることが、ある種、自分の生きている罪滅ぼしみたいに考えているのである。


 「弱い人間は許すことができない。許すという事は強い人間の象徴である。」・・・ガンジー


 という言葉があり、この言葉の理解はできるが、私は弱いがために人の迷惑に対して許しているのかもしれない。しかし、強くも弱くも、許容範囲が広い方が、人生を面白く生きれるものだとは確信している。


 許容ができなければ不満が出る。少し脳科学的な事を言えば、不満がでればストレスが溜まり、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌が激しくなり、常にイライラしてしまうからである。


 ただ、脳科学的にどうというわけではなく、生きている以上人に迷惑をかける存在であるならば、人の迷惑を被ることで、50%50%の、ある種、互いの平等存在でいられるのではないかと思う。


 私自身も、人からの迷惑を常に許せるほど許容範囲が広いわけではない。むしろ私自身が人の迷惑に対しての許容より、迷惑をかけている方が大きいかもしれない。

ただ、生きるために迷惑をかけることが「絶対条件」であるならば、迷惑を許容できる心を持った方が、人生を下らなくも面白くする「必要条件」だと考えている。

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